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つれづれなるままに日暮らし

vol.79 邪馬台国時代の集団墓−播磨・吉福遺跡− @ 兵庫県立考古博物館

vol.79 邪馬台国時代の集団墓−播磨・吉福遺跡− @ 兵庫県立考古博物館 (*)
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資料はコチラ↓↓
http://www.hyogo-koukohaku.jp/events/p6krdf0000005uqs-att/p6krdf0000005urs.pdf
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 今から40数年前に兵庫県教育委員会の嘱託員をやっとった頃の話です。私はその頃30歳ぐらいだと思ったら、
 33歳か34歳で“ようその年まで嘱託をやっとったな。”と改めて思いました(笑)。
40数年前に、兵庫県教育委員会に若者が3人おりまして、その中では一番年を食っとったと思います。佐用
役場の向かいに丘がありまして、今は福祉会館のような施設が建っていると思うんですけど、それを造るため
の発掘調査ということで、3人のうち、2人が調査しました。川沿いの丘の上です。資料にはケバを描いてそこ
に“破壊”と書いてあります。そこでは調査中なのに、下でブルドーザーが動いて、土採りをしていました。
一番大きな丸のところに竪穴石室の小さいのがありまして、そこを掘っていた人間が、土砂崩れが起きて落ち
ました。本当に怖かったですね。
 そのまま現場を放棄して、役場に寄って町長に会って“こういうことがあったので、もう現場辞めます。”
と、言いました。そして、県庁に戻って、当時の教育委員会の文化課課長に報告して“明日から現場行きませ
ん。”と言いました。今やったら“あぁ、良いよ、もう来なくて。”と言われそうですが、当時は高度成長期
でしたので、日本中どこへいっても発掘に行けるという気があったんですね。だから嘱託員の分際で偉そうに
していたんではないかと思います(笑)。それがあって、現場に行かなくなりました。当時の課長はなかなか
偉い方で、こんな嘱託員の話をちゃんと聞いてくれて、町長ときちんと話をしてくれました。工事を辞めさせ
てくれました。町から県に謝罪があったんでしょうね。“今後はそのようなことがないから。”って調査が再
開されました。
 川辺にある高さ50mくらいの丘の上に、平坦なところがあって、人間を埋葬ができるくらいの墓穴がありまし
た。細かい数字は2番、3番の資料に書いてあるので、また後で見ていただいたらと思います。墓穴は大きいも
ので3mくらいです、その中の木棺はせいぜい人の背丈に合う程度の大きさです。2m弱ぐらいのものが普通です。
2通りありまして、資料4、5に書いてありますのは、長方形の墓穴を掘って、その両端に長方形の穴を掘ってま
す。その穴は幅が15cmぐらいで、長さが30〜40cm程度、深さはせいぜい15cmくらいです。その長細い穴に、後
で他の遺跡の例でわかってくるんですが、木口板を立てたようです。墓壙の両側に板を立てて、両端を木口板
でおさえ、中に遺体を入れる組み立て式の箱型木棺なんです。そういうのは今では日本中で見つかっています。
木は腐ってしまっても、墓壙の両端にある木口を留める穴、木口穴があったので、木棺だったんだなとわかり
ます。あとから思うと、この時の調査は、とにかく地山の輪郭を追っかけるのに熱心で、資料5番のような輪郭
を掘りあげてしまってます。そしてようやく、木棺があったことに気付きます。今、博物館にいる調査員の技術
なら、もっと木棺の輪郭を上から見つけている可能性がありますね。40数年前はとにかく地山を追いかける。
本当は木棺の両側に別の土を置いたりしてます。床土も別の土を敷き詰めています。ということが今はわかって
いますが、当時は全くそんなことに気がつきもせんと、ただひたすら掘りまくってました。地山の輪郭しか見て
いないところが発掘としての反省点になります。その頃は日本中そうやったんですけどね。 
大きい長方形の穴を掘って、木棺を組み立てているお墓と、7番8番にありますように、同じように穴を掘って、
その両側に近くの川から拾ってきた、頭や腰ぐらいの大きさのある、川原石を棺の回りに並べ棺材を留める竪穴
石室のような構造です。そのようなものもありました。
 1番の図面で見ますと、1番大きい丸で描いてあるところが、竪穴石室風の石を使った木棺です。小さい丸と中
くらいの丸が石を使っていない木棺の痕跡です。同じ尾根の上でもグループによってお墓の構造が違います。時
期は3世紀後半くらいですから、邪馬台国時代の卑弥呼の時代が終わって、台与の時代ぐらいですね。播磨全体で
は、邪馬台国時代に石を使ったお墓はそんなに多くなく、上郡町の井の畑遺跡に立派な竪穴石室があります。邪
馬台国時代では立派な方です。ここはもっと小さい墓の集団でした。
 墓には3つのグループがあります。1つは石室の内側に石塊を4つ5つと並べて木棺を支える構造です。二重の構
造になっているんですけれども、この形をこのまま大きくすると、加古川市西条52号墳の鏡をもった石室と同じ
です。博物館の研究紀要にも報告されています。そういう構造が邪馬台国時代にどういうわけか西日本に点々と
出現しています。播磨にはその手のものが多いです。吉福遺跡は、佐用町でも兵庫県教育委員会でも当時、報告
書が出せませんでした。
 調査に参加した3人の嘱託連中が頑張って、当時、兵庫県内のあちこちにある小さい発掘現場を集めた「発掘集
報」を作りました。博物館の図書室にも入っていると思います。その中で報告をしています。
 この遺跡からは鏡とか、鉄鏃とかは全く出てきていません。だから、ごく埋葬されていたのは普通の人たちです。
石室を作れる人たちだけど、鏡とか刀とかを持つような人たちではないグループのお墓です。
 ただ、同時期の他の墳墓との違いで不思議なのが、頭から腰くらいの大きさの石を列状に並べている場所が何箇
所かあったことです。1番下のところに三重に石列を書いていますけれども、途中は壊されてしまって繋がりがわか
りませんが、1番大きい丸の中にも石列が縦にも横にもあります。だから、集団墓地が尾根の上に3ヵ所あって、そ
の全体を取り囲むように二重・三重の石が丁寧に並べられ区画されているような墓地です。このような例は、これ
は今現在でも見つかっていません。わたしも熱心に探したわけではないですが、無いですね。集団墓の中の一部を
石を並べて区画する。あるいは全体を二重の石列、三重の石列で墓地を区画するやり方をここの人たちがしている
というイメージがあります。そうなると、その中心に葬られている人が偉い人なのか。小さい丸を描いているとこ
ろが丘の一番高いところで墓穴も一番大きいから、一番偉いと思うんですが、残念ながら副葬品は何も持っており
ません。
 それから、播磨とか摂津と但馬を比べますと、但馬は豊かです。弥生末期から古墳初期に鏡も持っているし鉄も
いっぱい出てきます。だから、鉄が多いか少ないかでいうと、邪馬台国時代では一番の金持ちは但馬で一番貧乏な
のは瀬戸内海岸部の播磨・摂津といった感じです。しかし構造としては播磨と摂津はのちの古墳時代の構造のもの
を持っているという不思議な現象があります。そういう特色のあるお墓が出てきました。
 9番は石がゴロゴロ並んでいる列石の一部です。小さいものでは、6番にある大きさが1mもないようなお墓です。
神戸とか姫路とかの瀬戸内海海岸部の兵庫県域の中では、邪馬台国時代のこういう墓地は見つかっておりません。
ただ、集団墓ではなくて、あたかも後の古墳に近いような構造のものはあるんですね。たつの市揖保川町の岡山大
学が調査した養久山古墳群とか、神戸市ですと、西神ニュータウンの調査で見つかった天王山4号墳とか、その後の
古墳に繋がるようなお墓は点々と、神戸や姫路周辺などにあるんです。集団墓として副葬品は持っていないけども、
丘陵上に大型の木棺墓と河原石積石室墓をもち、列石で区画するのが、この吉福墳墓群の1つの特徴だろうと思います。
 ということで、終わります。

2014.10.10

2015年1月21日 10:40