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つれづれなるままに日暮らし

vol.78  飛鳥・都塚古墳は蘇我稲目墓か @ 兵庫県立考古博物館

vol.78  飛鳥・都塚古墳は蘇我稲目墓か @ 兵庫県立考古博物館 (*)
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資料はコチラ↓↓
http://www.hyogo-koukohaku.jp/events/p6krdf0000005otk-att/p6krdf0000005ouk.pdf
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 今日は奈良県の明日香村で見つかりましたお墓です。それが日本史で出てくる
蘇我氏一族の総大将である蘇我稲目だと新聞にも大きく取り上げられ、神戸新聞
にも大きく載ったと思います。でも、それは違うのではないかというのが、今日
のお話です。 ということで終わります。というのは嘘です(笑)。
 1枚目左の地図をご覧下さい。都塚古墳は地図の右側のはみ出した所にあります。
そのすぐ左にあるのが石舞台古墳です。大きさが50m四方の四角のお墓で蘇我稲目
の子どもである馬子の墓であると言われています。そして、黒く塗りつぶした1番
大きい古墳が6世紀の前方後円墳で、大きさが300mもある、とんでもない古墳です。
6世紀では日本列島最大です。5世紀では仁徳天皇陵が最大で450mくらいの大きさで
すけど、6世紀段階では日本中で古墳が各地域で100mクラスがありますが、この人
だけは300mです。蘇我稲目には色んな説がありますが、都塚説は今まで0でした。
 発掘調査されたのはずいぶん昔で、もう50年くらい前でしょうか。関西大学
網干氏が昔に調査をしたのですが、その時が石室の調査をして、墳丘の調査はきっ
ちりやってなかったんですね。今回は明日香村が中心で、関西大学を共同で再発掘
されました。
 そしてわかったのは、資料2番の新聞記事に載ってある、ピラミッド型の方墳で、
蘇我稲目の墓ではないかということです。わたしがたまたまテレビを見たときに、奈
文化財研究所にいた飛鳥時代専門猪熊さんが出ていて“稲目の墓で大丈夫や。”と
言うてました(笑)。猪熊さんが言うと、みんな疑うのか信じるのかわかりませんが。
7世紀飛鳥時代の墓を専門にしている人から見ても、ありえると考えられたわけです。
掘っていることは知っていたけど、新聞発表までには現地に行くことができなくて、
発表後は現地説明会当日に行っても、中に入れませんから、現地説明会の前の日に行
きました。担当者の話を聞きながら、教えてもらいながら中に入っていきました。新
しくわかったことは、大きさが40〜41m四方の四角い墓であると。以前の調査は石室だ
けだったので、わからなかったことです。年代が6世紀後半ということは前からわかっ
ていましたけど、飛鳥時期直前の墓です。
 4番の系譜を見てください。蘇我稲目蘇我氏一族の草分け的存在であります。文
献上に出てくる最初ですから。その子どもに馬子や堅塩媛がおります。馬子の子ども
蝦夷、子孫に入鹿がいます。この2人は悪者になっていますが、悪者だから“蝦夷
や“入鹿”と名前がついているのではありません(笑)。私はよく古代史の人に聞くの
ですが、“なぜこんな悪者のような名前がつくのですか?”と。そしたら“そんなこ
とわからん”と返ってきて、教えてもらえません(笑)。変な名前ですけど、そうい
えば馬子もそうですよね。だから、この時代に動物の名前をとるという風習があった
ようですね。ちなみに、東北の蝦夷とは何の関係もないですね。蘇我氏は渡来人では
ないかと言われているほど、半島的な進歩的な人たちで、仏教を取り入れた人たちで
すからね。堅塩媛は欽明天皇のお嫁さんになっている人で、その2人から生まれた、推
天皇がおるわけです。だから、推古天皇からしたら、おじいちゃんです。
 大化の改新といったら、みなさんご存知ですよね。中大兄皇子藤原鎌足蘇我
蝦夷と入鹿を殺したという事件ですけれども、それで蘇我氏が滅びるのです。中臣鎌
足はこの後に出てくる皇極天皇のときに実質的な天皇の役割をしております。そうい
う時期のお墓が見つかったということです。
 資料2枚目をご覧下さい。2〜300m離れたところ、石舞台古墳より少し山手に150m〜
200mくらいに上がったところにあるのが都塚古墳です。その石舞台古墳は一辺が50m、
墳丘の四角い部分で50mです。都塚は約40mです。だから、稲目の墓だとしますと、息子
の入鹿の墓のほうが父親よりも大きく造ってあるということになります。そういうこと
のないとはいえませんが。たまたまこ石舞台古墳昭和8年、何で覚えているかとい
えば、自分が生まれた年だからです(笑)。
 昭和8年に私の親分である末永先生が京都大学におられた頃、学生でなければ教師で
もないよくわからない立場で京都大学に通っておられた頃があります。本人が言ってお
られたんですよ。大将は日本考古学の草分け的存在である浜田耕作先生が京都大学にお
られまして、その方の命令で石舞台古墳の調査を担当し、こんな大きな墓であることが
わかったんです。それまでは堀が全部埋まってまして、石舞台の石の部分だけが、江戸
時代より地面に現れておったんです。伝説では、蘇我馬子の墓だから大化の改新蘇我
氏がやっつけられた時に、全部古墳が暴かれたので、石の部分だけが露出していたとい
うことです。本当なら石の上にでっかい丸饅頭みたいな塚があったはずなんだけど、そ
れを全部、悪者になったということで、墓を暴かれたと地元ではよく言われています。
その辺は民間伝承ですから真意はわかりませんけど、そういう風にいわれている古墳です。
 その古墳の第二次調査が私は大学院生の頃ですから、もう40年以上前に“発掘に行っ
て来い”と末永先生に言われていきました。その時にわかったことは、資料5番にありま
す、一辺50mの四角の右側のところに濃い紙を貼ってまして、線を引っ張って「周濠内
落石中中地」と書いてあります。一辺50mの四角い台に石を張り巡らしてるのがあります
が、8番の写真のように、四角い墳丘の裾に拭き石が綺麗に貼ってあるんです。その石の
上に50mの中央部分にだけ、石が集中的に転がっている部分があって、堀が全部うずまっ
ておって、その当時、今から40年ほど前、その石を全部掘り出す発掘に参加しました。
そうしますと、集中的に一辺中央付近に20〜30mに渡って石がゴロゴロと転がっておりま
して、それを末永先生に報告しました時に、“もしかしたら上が全く土が残っておりませ
んが、下は四角だけども上が丸なんじゃないんでしょうか”と。7番のような形ですね。
“上円下方墳ではないんでしょうか。”と言ったら、“俺もそう思うけど、浜田先生はま
だそこまでは決め難いということで、報告書には4通りの可能性を報告されている。”と
いう風に先生はおっしゃってました。結局はそれは昭和8年、80年前の話であって、40数
年前に上円下方墳であると決まったと思っております。石室は9番の写真のように人が映っ
ていますけど、やたらでっかいですよね。播磨とか若狭にもでっかい横穴石室があります。
あれも結構おっきい部類ではありますけど、石舞台は石室から入り口まで20mほどあります。
あれはいつか団体の人をご案内しました。100人くらいいて、全員入ってくださいと言ったら、
全員入りました。100人ですよ、100人。考古楽倶楽部の人が全員行っても入れるんですよ。
でっかい古墳です。それを図にしたのが10番です。
 ということで、都塚に戻りますと、大きさが41〜42mでピラミッドのような形をしています
けども、下が41〜42mの四角い台の上に古墳が乗っているのが今回の調査で初めてわかった事
実ですね。その上がそのスケッチにあるような7段か8段の四角で造っているかは不確かです。
それは12番の写真を見てください。これが今回掘ったところですが、一辺40mほどの一部に幅
1mくらいのトレンチを墳丘に入れただけです。この写真では判りにくいですが、12番の写真で
下の方、4段まで石がかたまってあるのが見えますか。石舞台古墳の8番のような一番下の石、
葺き石というのは一番下に大きな石を置いてその上に小さい石を何段か積むという、そういう
石の積み方をするのです。現地で見ますと、一番下にきっちりと石を敷き並べたという風には
なってないんです。転がってきたそのまんまという感じで、下の面が揃ってないんです。格段
の葺き石の。4段あるうちの1段か2段がそうなっていて、後の2段がきっちり葺き石の基底石が
揃っている場合は、4段あるうちの2段が揃っていたら、本来は全部揃っていたんだなと考えら
れますけど、4段とも全部いい加減です。揃ってないです。現場を見に来た考古学の人が“こん
なん畑のときに積んだ石や”と言っていたのを後から聞きました。そんなことを言った人がい
たそうです(笑)。それはちょっと極端やけど、そう言った人がいたそうです。そう言いたくな
るくらい、いい加減な積み方です。そういうこともあって、私が掘っている明日香村の現場の
担当者に“せめて4分の1掘ったほうがいいぞ。”と言ったんです。“4分の1を掘って、本当に
これが各段の葺き石なのかどうかと確認しないと、本当にピラミッド型の墳丘なのかわからない。”
という風に言ったんですけれども、今回の調査では難しいと言っておりました。
 新聞では蘇我稲目の墓だという時に、蘇我稲目という人は仏教を取り入れるほどの新しい文化
に積極的な人だから、他にはない四角い墓を造ったっておかしくないと。例えば、朝鮮半島には
13番・14番にあるように、有名な高句麗北朝鮮から中国東北部のその地域にかけてはでっかい
四角い墓があるので、それがルーツになった可能性があると新聞には載ってましたけど、これは
考古学の人間は誰も信じません。なんでかいうと、年代の差が200年ほどあるからですね。13番
の下にも4世紀末と書いてあります。4世紀といえば、古墳時代前期です。この石舞台古墳は7世
紀、飛鳥時代の古墳です。そのお父さんの墓ですから、よその国のめちゃくちゃ古い墓を持って
きたとか。言った本人も別に本気で考えているわけではないと思うんですけどね。新聞記者の方
がそのまま書いたのもおかしいんですけども。という風なこともあって、なかなか、蘇我稲目
墓と決まらないだろうと。そしたら、いままで蘇我稲目の墓はどこだと言われているかというと、
諸説ありまして、1枚目の地図に戻りますと、大きな丸をしている前方後円墳、300mの五条野丸山
古墳という考え方、昔は見瀬丸山古墳とも呼ばれてました。それと、その下に丸をしています、
現在、宮内庁欽明天皇陵と呼んでいる古墳、この2つの古墳が従来、稲目の墓として論文など
では書かれている古墳です。
 それに比べますと、稲目の墓だと考えますと、息子の馬子の墓よりも小さい。お父さんが亡く
なったときに、葬儀委員長は息子、だいたいは跡取り息子ですよね。その時には本人はお墓を造り
かけている可能性があるのですよね。仁徳天皇天皇になった時に和泉、堺の方に墓をどこに造ろ
うかと思って見に行ったら、百舌に耳を噛まれた鹿が飛び出してきたという伝説が日本書紀にあり
ます。ということは、天皇の位に就いた時に、それぞれの跡取り息子として、成人式をやった時に
自分の墓造りを始める寿陵をします。今でもお墓に夫婦の名前、戒名が刻んであって、お父さんの
方はそのままで、お母さんはまだ生きているのに刻んで赤い色は塗りこんであるという。あれは、
亡くなったら一緒に入るという、寿陵ですよね。そういう考え方が飛鳥時代にもあったと思います
ので、仁徳天皇陵の件からも考えてもあったと思います。自分の墓が一辺50m、自分の親父の墓が40m。
葬儀委員長の自分が墓を造ってあるのに、それより小さく造ることはありえないと思います。
 ということもあり、残念ながらこの都塚古墳は違うだろうと。都塚から左下、5cmほどの所に小
さい丸をしてありますが、これもあまり有名ではありませんが、一辺40mの飛鳥時代の古墳です。
新聞記者が聞きに来た時は“ここにも稲目の墓があるぞ”と嫌味を言ったことがあります(笑)。
40mほどの墓なると、逆に稲目がかわいそうやという風に思います。蘇我創始者ですよね。活躍の
点からいうと稲目よりも上という人物の墓ですから、40m程度というわけにはいかんだろうという風
に思います。それであっても、蘇我氏の有力な誰かの墓だということはわかります。
 ということで終わります。

2014.09.11

2014年12月25日 13:14