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つれづれなるままに日暮らし

備中高松城の水攻め

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にっぽん!歴史鑑定 #265「戦国の世を変えた!秀吉の備中高松城の水攻め」
群雄が割拠する戦国の世において「城攻めの達人」と呼ばれたのが、
戦国三英傑のひとりである豊臣秀吉
秀吉は周到な策略によって多くの城を攻め落としているが、
中でも人々を驚愕させたのが、備中国高松城を攻略した際の奇策…
水攻めである。

なんと秀吉は備中高松城を堤防で囲み、
その中に川の水を流し込んで城を水没させてしまった。
そしてこの備中高松城の戦いが、
織田信長豊臣秀吉という二人の天下人の運命を
大きく変えてしまうことになるのだが、一体どんな戦いだったのか?

築堤工事の際、土嚢をひとつ運べば一日分の労賃がもらえた?
水攻めを成功させるために秀吉が行った驚きの手法とは?

水攻めの真っ最中に本能寺の変が勃発!
その時、秀吉と黒田官兵衛がとった意外な行動とは?

5千人の家臣を救うために壮絶に散った、高松城主の清水宗治
秀吉を感服させ、武士の鑑と称えられた、その見事な最期とは?

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2014年のNHKの大河ドラマ「軍師 官兵衛」にちなみ、秀吉軍の水攻で有名な岡山の備中高松城と、この高松城攻めの際、毛利方の守りの要となった備前と備中の国境に南北に並ぶ境目七城の最南端の城、庭瀬城を訪ねてました。<br /><br />写真は、境目七城のひとつ庭瀬城跡本丸の八幡宮です。<br /><br />第一編 広峯神社と御師屋敷跡<br />  http://4travel.jp/travelogue/10845071<br />第二編 加古川(正室 光(てる)姫(幸圓)の故郷)<br /> http://4travel.jp/travelogue/10852251<br />第三編 英賀(毛利水軍との合戦の地)&亀山本坊本徳寺 <br /> http://4travel.jp/travelogue/10865294<br />第四編 姫路文学館「播磨灘物語」展と姫路城<br /> http://4travel.jp/travelogue/10866914<br />第五編 西播磨 佐用の三城(上月城、福原城、利神城)と飛龍の滝<br /> http://4travel.jp/travelogue/10871054<br />第六編 書写山 圓教寺<br /> http://4travel.jp/travelogue/10878436<br />第七編 妻鹿 国府山城、御着(姫路埋蔵文化財センター)<br /> http://4travel.jp/travelogue/10867385<br />第八編 三木城址と秀吉本陣、平井山付城跡<br /> http://4travel.jp/travelogue/10879951<br />第九編 備中高松城と庭瀬城(境目七城)<br /> http://4travel.jp/travelogue/10888291<br />第十編 黒田家中興の地、備前福岡<br /> http://4travel.jp/travelogue/10891040<br />第十一編 北近江 長浜<br />  http://4travel.jp/travelogue/10904386<br /><br />備中高松城は、岡山市の西北部に位置し、備中と備前の国境を流れる足守川沿いに南北に並んだいわゆる境目七城、この要となる城でした。秀吉の織田方による備中への進行に対し、毛利方はこの境目七城を防衛線と定め、主城である備中高松城主清水宗治以下により防備が固められていました。これら備中の諸城は概ね平地に位置し、周囲を深田や沼などの湿地で囲まれた、いわゆる沼城であったようです。このため、城へは田のなかをはしる細い道以外は深い泥沼地帯であり、大量の兵を入れたとしても動きが止り、絶好の的となるばかり、少勢の守城側にとって非常に守りやすい城であり、攻め側としては大いに攻めあぐねたであろうことが考ええられます。。これに対し、官兵衛の奇想天外ともいうべき献策、水攻、これこそ攻め側としては兵力の損耗を最小限に抑え、有効に敵城を窮地へ持っていけるものでした。この策の実行にあたっては扇状に開けた地の真ん中に高松城が位置することを官兵衛が見抜き、城の両側の山間部を結ぶように堤を巡らせ、そこへ足守川の水を導くことで城もろとも水没させるというものでした。<br />現在備中高松城そのものは、遺構などほとんど残ってはいません。ですが地元の方々の努力により史実に沿ったかたちで本丸、二の丸、三ノ丸などの城地を復元し、城址公園として整備されいました。また、高松城の支城、境目七城のひとつ、庭瀬城、ここは江戸時代以降も陣屋として使われていたということもあってのことでしょう、地図で見ると当時を忍ばせる堀や運河が比較的整然と残ってます。境目七城の支城のひとつとして今回、ここも訪れてみました。<br /><br />

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