高槻市の東部、道鵜町の淀川河川敷に広大な「鵜殿のヨシ」が群生しています。
鵜殿を含む鵜殿村(現在の道鵜町・萩之庄・井尻・上牧のあたり)は、山崎や柱本などとともに古くから歴史に登場します。紀貫之の『土佐日記』には、承平5年(935)に、貫之が土佐から帰京するおり、「うどの(鵜殿)といふところにとまる」という記述があり、一行が鵜殿に宿泊したことがうかがえます。
このあたりは、奈良時代、都の牧場(まきば)として知られ、上・中・下の三つの牧場がありました。その名残りが上牧という地名として今に残っています。
鵜殿に生えるヨシは、高さ3mもある大形のヨシで太く弾力性に富んでおり、雅楽で用いられる楽器・篳篥の吹き口として珍重されていました。『摂津名所図会』にも記されているように、江戸時代には貢物として献上されていました。その後、昭和20年ごろまで、毎年100本ずつ宮内庁に献上されていました。
このほか、江戸時代には、ヨシで編んだヨシズが盛んに生産され、宇治の茶園や高槻市山間部の原・塚脇地区の寒天製造者に送られていましたが、寒天業の縮小とともにヨシズ製造も規模が小さくなっていきました。
鵜殿では、雑草などを防いで品質のよいヨシを育てるため、毎年2月に地元の人々の協力のもと「鵜殿のヨシ原焼き」が行なわれています