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つれづれなるままに日暮らし

富松城と戦国の尼崎

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尼崎市富松町にある富松城跡というのはどういう史跡なのか?現状はどう ...
crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000129246
富松城跡というのは、尼崎市富松町2丁目に残る、中世戦国期の土塁と堀跡からなる城郭遺構です。都市化が進んだ平野部に中世城郭遺構が残る例はほとんどなく、稀少性の高い史跡と言えます。 富松は、池田・伊丹・尼崎・西宮といった中世の城郭及び町場 ...

富松城跡は、文献資料からこれまでは15世紀の後半に築造された城と考えられてきました。しかし、1994年度、尼崎市教育委員会が行った発掘調査から15世紀前半には本格的な城館として整備されていたことが分かっています。

1447年11月10日 富松但馬守三郎左衛門は富松村の牛頭天王社で千句連歌を興行するため、中原康富に発句を寄せてもらった
1467年1月 この頃、富松庄は大乗院の料所に宛てられていた
1467年5月

応仁の乱勃発(〜1477年) 1487以前

平安時代から富松荘が置かれ、薬師寺氏が荘園管理の任務にあたっていたことから、富松城は薬師寺氏の居館として構えられていたと思われる

1487年11月 「如意庵領年貢算用状」で富松城の名が史料で初めて出てくる

1507年6月23日 細川政元が養子・澄之をかつぐ家臣のはかりごとにより殺される

1507年6月24日 細川澄元が澄之勢に襲われ、京から近江へ逃れる

1507年8月1日 政元の養子・高国が澄之の寝所を襲い、切腹に追いやる

1507年8月2日 政元の養子・澄元が家督として入京する

1508年5月 池田城(池田市)の城主・池田貞正が、細川澄元に味方したので細川高国が貞正に報復し殺す。これが尼崎に戦火をおよばす始まり

1508年7月 足利義材(義稙)が将軍に復職する。高国は将軍復職に大功があったことから、細川家の家督を継ぐ

1519年10月22日 有馬郡田中(三田市)に立てこもる澄元勢に対する、高国勢の交戦が、 尼崎地方が主戦場となる発端に

1519年12月2日 細川高国方在城

1519年12月6日 細川澄元軍に対抗して越水城(西宮を守っていた瓦林政頼を助けるため、高国が池田城を本陣として九十九町(富松)などに陣を置く

1520年2月16日 細川澄元方在城

1520年6月10日 細川澄元方が阿波国で病死

1526年 高国が西摂津支配のため海上交通の要所にあたる大物に尼崎城を築く。高国と澄元の子・晴元の対立が表面化

1530年8月27日 晴元方の薬師寺三郎左衛門国盛が立てこもる

1530年9月21日 晴元方の薬師寺国盛在城、神呪寺(西宮の本陣を出た高国軍が富松城を襲う。国盛森24人討死

1530年10月19日 晴元方高畠甚九郎・薬師寺国盛が高国勢と富松南で交戦30人余討死し、晴元勢伊丹城に敗走、高国占拠し在城

1531年6月8日 尼崎の広徳寺で高国が切腹

1541年9月29日 伊丹衆ら西富松に在陣するも戦わずして分散。晴元方、伊丹・越水・西宮に放火

1549年5月1日 三好長慶方在城、晴元側が富松城を攻めるが失敗

1550年1月10日 三好長慶が富松城に在陣

1579年* 織田信長による伊丹城攻撃のときに信長方の陣地となる

富松城 - 城めぐドットコム
www.siromegu.com/castle/hyogo/tomatu/tomatu.htm
富松城は戦国時代の城館で、長享二年(1488)の史料にその名がみえます。永正四年(1507)以降、室町幕府三管領の一家に数えられ摂津など畿内周辺の数カ国の守護を占めていた有力大名細川氏の分裂抗争を発端とする戦乱が尼崎地域に及ぶと、西摂 ...

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