たかやすじょうそうこあとそせきぐん 高安城倉庫址礎石群 - 八尾市観光協会
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昭和53年(1978)発見 奈良県平群町久安寺字金ヤ塚 奈良時代前期 西暦六六〇年、唐と新羅は連合して百済を攻め滅ぼした。救援を求められた斉明天皇や皇太子中大兄皇子は九州へ向かったが、天皇は九州で急死、百済へ向かった日本の水軍も白村江の戦いで唐の水軍に完敗した。この緊迫した状況のもと、天智天皇は六六七年、近江大津宮に遷都、そのいっぽう、ここ高安山に高安城を築いた。対馬の金田城、九州大宰府を守る大野城や基肄城、瀬戸内の屋島城などと並ぶ日本防衛のための大規模な古代山城である。この高安城を一三〇〇年たった今、高安城を探る会が倉庫跡礎石六棟分を発見、城の所在地を確認した。高安城には築城後、畿内の田税である穀と塩を蓄え、非常時に備えたが、六七二年の壬申の乱で倉庫は炎上、その後天武・持統天皇の時代に修築され、文武天皇の七〇一年に廃城となったと、『日本書紀』や『続日本紀』に見える。この倉庫は六棟の内の2号棟で、橿原考古学研究所が昭和五七年三月に発掘した。この時、礎石の下から平城京跡で発見されているものと同じ暗文入りの盤(大皿)や杯が多数出土した。この土器の年代から、これらの礎石は奈良時代前期、七二〇〜七三〇年代のものと判明した。3号棟も昭和五八年三月に発掘され、同時期と判明した。ただ、ここでは礎石を取り巻く形に掘立柱列がめぐっているのが発見された。【出典:『高安城跡倉庫礎石群・ステンレス製説明板』(高安城を探る会、1996年)より抜粋】
①高安城倉庫址礎石群:昭和53年4月、市民グループの「高安城を探る会」が高安山頂から奈良側へ200mほど下ったところで発見した。倉庫は3間×4間(柱間約210㎝)で20個の礎石がある。6棟みつかった。この発見によって高安城の文献の記載がはじめて確証された。【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光・八尾市市長公室 市政情報課・八尾市郷土文化研究会、1999年)】
②高安山駅前に「高安山の史跡案内」がある」・・・高安山史蹟案内碑:高安山から信貴山への山道は緑の中のハイキングコースとして人気がある。一方、ここは、史跡も多く、史跡を見ながらハイキングをしてほしいと願って、昭和60年6月、この史蹟案内図ができた。碑面は三部からなる。左から高安出城、高安城倉庫址礎石群、信貴山城である。この順に歩くと、ハイキングと歴史散歩を楽しみながら自然と信貴山朝護孫子寺へ行けることになる。【出典:『八尾の史跡』(棚橋利光・八尾市市長公室 市政情報課・八尾市郷土文化研究会、1999年)】