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つれづれなるままに日暮らし

vol.83 縄文人のコメづくり─加古川岸遺跡のナゾ─ @ 兵庫県立考古博物館

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vol.83 縄文人のコメづくり ─加古川岸遺跡のナゾ─
資料はコチラ↓↓
http://www.hyogo-koukohaku.jp/events/p6krdf0000005uky-att/p6krdf0000005uly.pdf
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今回のタイトルは「縄文人のコメ作り」です。中学・高校の教科書では、コメづくりは弥生時代になってからと習いますが、縄文人もコメを作っていたことが数十年前から、資料に基づいて言われています。
今から50年ほど前、新幹線ができる少し前です。加古川市岸で、縄文時代晩期、今から約3000年前の土器がカケラに籾の跡がついているのが見つかりました。その遺跡は小さい発掘だったので、分厚い報告書ではなく、パンフレットのような冊子で報告されています。
ところが、縄文時代晩期の土器のカケラに米の圧痕があったという報告は実は載っていないんです。今から50年ほど前に、縄文土器のカケラに米粒の跡が引っ付いているということに仮に気がついたとしても、“そんなことはありえない”とか、“なんかの間違いや”とか、“稲に良く似た、別の植物の種ではないか”と思ったんでしょう。なぜか、報告されてないんです。
その時から20年くらい経ってからです。福岡市に板付遺跡弥生時代前期の土器片に稲籾の圧痕がついているのがみつかりました。溝の底から出てきた土器類を細かく調べていたのが山崎純男さんです。山崎さんとは、板付遺跡の発掘を少し手伝ったり、同じプレハブに泊まったりしてました。そうすると、必ずどっか行きましょうとか言って飲み屋に行くんです。山崎さんは飲み屋で魚をキレイに食べるんです。そしてその魚の骨を持って帰るんです。
なんの為にかと思ったら、遺跡から魚の骨が出てくると、それがどういう種類の魚か調べる材料にするんです。遺跡から出てくる魚や動物の骨は一部しか出てきません。全身そろってはなかなか見られないので、その一部でなんの魚であるかを調べようとしてました。“それなら公費で飲み屋に行こうよ!”と言えば、“そんなことさせてくれんわ!”と返されました(笑)。
話を戻しますと、板付遺跡から明らかに縄文晩期の土器と一緒に田んぼが遺構としてでました。その田んぼは資料4番のスケッチに載っているように、幅1mくらいの溝の一部を堰き止めて、そのすぐ横から稲を植えた跡が出てきました。
畦に水口を作った跡まできっちり出てきました。現場を見に行ったとき、畦道から20mほど離れた水田内に5cmくらいの石ころが、点々と出てきました。これについて山崎さんは“秋の実りの頃に、スズメが田んぼを荒らしに来るからと、弥生人が石を投げて追い払ったと”、見てきたような楽しい想像をしていました(笑)。
岸遺跡で籾の跡と思われる土器のカケラが出てきた頃より、20年ほど経ったころです。ですから、岸遺跡の調査の時には、日本中で縄文時代晩期とはいえ、米作りをしているなんて言ったら“お前は馬鹿か”と言われるのではないかという思いはあったのかもしれませんね。
なので、縄文時代晩期に米作りが行われていたということが最初にわかったのは、兵庫県加古川市であったというのが、残念ながら言えなくなったんです。板付遺跡に先を越されました。
そういうことは、他の遺跡でもたまにあります。兵庫県でも見つかっていますが、平城宮跡奈良時代の人が板切れのようなものに墨で字を書いた木簡が見つかりました。紙が貴重でほとんど無いに等しい時代でしたから、紙に変わる木簡が使われていたことが、50年ほど前に判りました。
実は、三重県の遺跡で平城宮より先に出ていたんです。文字を書いた板片は新しいだろうと報告はされていませんでした。その後、平城宮跡で出たということがハッキリした後に、“実は三重県でも・・・。”ということがありました 。やはり、出たものはきちんと、アホだと思われてもいいから報告をした方がいいですね。
そうは言いながら、もし私自身の発掘で、アホだと思われていいと思って報告したら、本当にアホなことがあったりしますからね。例えば尼崎市田能遺跡の調査をしているとき、調査区の端の土層の図を採るために削っていたら、幅が10cmで長さが50〜60cmほど見えていた薄い板に字が書いてました。明らかに弥生時代の土層です。
本当かどうかと思って丁寧に土層断面を精査したら、現代の地表面近くから3mくらいある穴を掘っており、その中の現代の卒塔婆であることがわかりました(笑)。もしその時に喜び勇んで新聞記者を呼んで“弥生人がこんな大きな板に大きな文字を書いている最古の発見だ!”と言っていたら、“アホか”ということになっていました。ということが在りうるから危ないんです。
資料1番に、京都市上里遺跡の米粒を載せています。3番には福岡市板付遺跡の米粒を同じように載せています。炭化米になっているから、きっちり残っているのです。今現在だったら、弥生時代の遺跡から、炭のような米粒が出てきても誰も驚かないです。あって当たり前なんですから。
上里遺跡は数年前に見つかった遺跡ですけれども、ここは弥生時代ではなく、縄文時代晩期です。報告書には、これでもかというくらい、“縄文晩期の層から“炭化米が何粒でた”とか、“計測すると何mm×何mmの大きさである。”とか、細かい研究成果が書いてあります。それ以外では、大阪の讃良群条理遺跡でも縄文時代晩期の土層から時々米粒が出てきます。今のところ関西では、縄文晩期の米粒は出てきても、水田跡は出ていません。
それが今の実態なんですが、これから期待されるのは、縄文晩期の水路に設けられた堰です。茨木市加古川市東神吉遺跡にあります。東神吉遺跡で弥生前期の水路の合流地点を発掘していたら、流水を堰き止めた杭列を見つけたことがありました。水路を作って、田んぼに水を流すんです。
今でも、田んぼのフチを歩いていたら、コンクリートの幅の狭い水路があって、所々、板で蓋をしていますよね。同じことを2000年前の弥生人もしています。福岡では、幅が30mくらいある川に杭を30m分打ち込んで大規模なダムのような堰を造っているところもあります。そのような大規模な工事を弥生人はやっていました。小規模な河川灌漑を縄文時代晩期の人たちが少しずつ始めていたんです。
北部九州には、縄文時代晩期の土器である、夜臼式土器の時期の水田跡があります。米づくりをしているから弥生時代の土器と認めましょうと論文が発表され、今では弥生時代期早期と名づけ、夜臼式土器に伴う田んぼがあるということは考古学者ならほぼ認めております。福岡市の板付遺跡の発見でわかったことだとなっていますが、“それよりも前に播磨でわかっていたのにな”と残念に思います。
現在は、夜臼式土器よりも一段階古い、縄文晩期の山ノ寺式土器の段階に佐賀県唐津市の菜畑遺跡から水田跡が見つかっています。最初に縄文水田を見つけた山崎さんはその後、研究を重ねて、縄文時代後期まで確実に遡るとしました。紀元前2000年〜2500年くらいまで米作りは遡るんです。密かには“縄文中期の可能性もある。”と言っていました。
土器片の内部を細かく見ていくと、米だけにつく虫であるコクゾウムシの存在に気がついたのです。顕微鏡で視ると1mmあるかないかです。石膏型で精密に形をとると、目をむいてるような虫が見つかるんです。そのような研究が進んできて、縄文時代後期がおろか、中期まで行く可能性がわかりつつあるという論文が5〜6年前に発表されています。
しかし、3年ほど前に「コクゾウムシは米だけにつくとは限らない」という研究が発表されまして、イネ科植物のススキなどにもくっつく虫だそうです。ですから、コクゾウムシの圧痕が土器の粘土の中に閉じ込められて見つかったとしても、それは稲や米に取り付いたとは限らない。他のイネ科の植物についてる可能性があるという植物学の観点からの批判的論文が出まして、今は両方の観点から慎重に考える段階になっているのではないかと思います。
そういう風に米作りの開始年代の研究は進んできていますけども、そのきっかけが播磨でなかったのは残念です。
最後に、資料の右下に足跡の写真を載せていますが、これは板付遺跡の田んぼの遺構についていた足跡で、私が現場を見に行ったときに足跡がたくさんでてまして、田んぼ作りをしていた縄文人の足跡の石膏型をとり、米作りをした縄文人が“関門海峡を渡る!”という意気込みで奈良へ持って帰りました。ところが、今は行方不明になっています(笑)。橿原考古学研究所のどっかの収蔵庫にあるはずなんですけどね(笑)。

2015.1.14

兵庫県立考古博物館メールマガジン

2015年5月26日 11:55

縄文*