英雄たちの選択「天平パンデミック 聖武天皇と橘諸兄 復興への葛藤」
天平時代、日本は天然痘のパンデミックに襲われ、国民の三分の一が失われたという。復興に当たった聖武天皇と宰相の橘諸兄。やがて律令国家の根幹を捨てる選択を迫られる。
今から1300年前、律令国家日本の都・平城京は「咲く花の匂うがごとし」という繁栄を迎える。そこに襲い掛かったのが天然痘のパンデミック。全国民の三分の一が命を落としたといわれる。復興に当たって聖武天皇が政権を任せた橘諸兄は農民の負担を軽くするなど力を尽くすが、天皇は「仏が守る国」を作るために次々と新たな事業を起こす。その財源を確保するため、諸兄が迫られたのは、律令国家の根幹制度を捨てる選択だった。
本年の正倉院展は、北倉14件、中倉8件、南倉17件、聖語蔵2件の41件の宝物が出陳されます。 ... 当館観覧券売場では販売していません。) ... 中倉18 続修正倉院古文書別集 第四十八巻 [ぞくしゅうしょうそういんこもんじょべっしゅう]
www.touken-world.jp 645年(皇極4年)に「中大兄皇子」(なかのおおえのおうじ)、「中臣鎌足」(なかとみのかまたり)らによって「蘇我入鹿」(そがのいるか)を暗殺して蘇我氏を滅亡させた「乙巳の変」(いっしのへん)。これを契機として、「皇極天皇」(こうぎょくてんのう)に代わって「孝徳天皇」(こうとくてんのう)が即位して発足した「倭」(わ:現在の日本)の新政府では、中大兄皇子らを中心として「大化の改新」(たいかのかいしん)が推し進められていました。中央集権的政治への構造改革が行なわれている最中だった663年(天智2年)、わが国初の対外戦争が勃発します。それが「白村江の戦い」(はくすきのえのたたかい)です。「唐」(とう)・「新羅」(しらぎ)連合軍によって滅ぼされた「百済」(くだら)の遺臣「鬼室福信」(きしつふくしん)から救援要請を受けた倭の「斉明天皇」(さいめいてんのう)は、出征を決断。朝鮮半島の南「白村江」で唐・新羅連合軍と戦いましたが、一敗地にまみれました。