altgolddesu’s blog

つれづれなるままに日暮らし

中世山陽道

www.google.com 

日本書紀』の中で、「山陽道」の名が最初にみられるのは天武天皇(第40代天皇)の14年(685)である。

道路としての山陽道が整備され始めるのも、やはり、天武天皇の時代と考えられる。そして古代山陽道の整備が最終的に完成するのは大宝元年(701)以降と考えられている。 

中央の政府が国家的な要請で「官道」として山陽道の整備を始めたのは、政治的な要請だけではなく、軍隊を輸送・展開するための軍事的な要請もあり、さらに、諸国の様々な物産を祖、庸、調として中央に貢納させるためにも必要な措置だった。律令制時代の前半、春米(つきよね)の貢納では、海上交通よりも安全性の高い陸上交通が重視されたことが各種の文献からうかがえる。 

山陽道は「大路」とされていた。全国の道路の中で「大路」は山陽道だけ 

延喜式』(現在の法律施行規則にあたる)によると、「駅家」の名としては

備前では坂長、珂磨、高月、津高がある。

備中では津見、河辺、小田、月後があり、

備後では安那、品治、者度(うつど)が記録されている。

格駅は30里ごとに置かれ、

それぞれ駅使いがいて馬20匹を備えることが定められていた。

備前地域内駅家(うまや)
①坂長駅家(備前市吉永町)    ・馬20疋(匹・ひき)
②珂磨(かま)駅家(赤磐市松木) ・馬20疋
高月駅家(赤磐市馬屋)     ・馬20疋
津高駅家(岡山市一宮付近)   ・馬14疋

播磨から備前に入る道は、おおむね現在のJR山陽線に沿って坂長駅(現在の備前市三石付近)に入った。次いで吉永町を経て珂麿駅(赤磐市熊山町松木付近)を通り、両宮山古墳と備前国分寺の近くの高月駅赤磐市山陽町馬屋付近)経由で備前国府(岡山市国府市場)に至った。さらに津高駅(岡山市富原付近)から旧国道の吉備の中山、吉備津神社の北を通り、備中の津見駅経由で備中国府(総社市金井戸)に入った。津見駅の所在については、いろいろな説があるが、現在では倉敷市矢部が有力。これより西は、高梁川西岸の河辺駅倉敷市真備町川辺付近)から箭田(やだ)大塚古墳の南を通り、小田駅(小田郡矢掛町浅海付近)経由で後月駅(井原市後月谷付近)に至った。
備後へは、国分寺跡近くの安那駅(深安郡神辺町下御領付近)を経て、品治駅(福山市駅家町付近)にいたった。福山市駅家町の地名になっている駅家の中島遺跡からは奈良時代の古い瓦が多数出土しており、これが品治駅とされている。
そして、さらに芦田川をさかのぼって備後国府(府中市府川町付近)に入り、国府から芦田川の支流に沿って者渡駅御調郡御調町付近)に至る。そして、ここから八幡の山間の峠を越え、沼田川の支流域に出て安芸の国へ入ったものとみられる。

山陽道を通って平安京へ行くには、備前からは8日間、備中からは9日、備後からは11日、安芸からは14日を要したといわれている。現在の幹線道路のような舗装された立派な道路ではなかったが、それでも山陽道は国家的な要請によって造られたものだけに、真っすぐな道を繋ぎあわせたような最短距離で結ぶ道路であったようだ。

kaidoaruki.com 

kaidoaruki.com 

f:id:altgolddesu:20210403213434p:plain