「摂州平野大絵図(1763)」より
平野の町は、周囲を濠(ごう)と呼ばれる堀と、その内側を土塁(どるい)と呼ばれる土盛りで囲まれていて、碁盤目状の町割りになっていました。出入口には惣門(そうもん)が13カ所あって、そこには地蔵尊が祀られていました。このような環濠(かんごう)集落になったのは、16世紀末頃の戦国時代だと言われています。
明治19年測量の地図を見ると周りの堀がかなり埋め立てられているのが確認できます。
現在の地図と重ねて見ました。今でも杭全(くまた)神社と赤留比売命(あかるひめのみこと)神社周辺に環濠の名残が残っています。
ちなみに赤い印は地蔵尊がある場所。