明治時代に新淀川が開削されると南側に幅15~20メートルの放水路が造られた。名前はかつて新淀川の流域周辺を流れていた「中津川」が引き継がれた。「中津運河」とも「長柄運河」とも呼ばれ、毛馬の閘門(こうもん)から当時の大淀区(現在の北区)を経て福島区、此花区を通って正蓮寺川や六軒屋川に流れていた。水運も盛んだったという。
1967年10月19日の毎日新聞朝刊で中津川の埋め立て工事が報道された。阪神地区の飲料水、工業用水を確保し、下流では海水を川に流し込んで、汚れきった川筋をきれいにするという一石二鳥の工事になるという。一方、かつては色鮮やかな染め物をさらしたり、ハス釣りでにぎわうなど、大阪市北部の風物詩になっていた「水の都」の川がまたひとつ消えるとあって、名残を惜しむ人も多いと書かれている。
淀川下流の中津川に沿って、佐太から河口まで約16kmの新淀川を開削しました。
これに併せて、現在の大川(旧淀川)入口の毛馬に洗堰を、神崎川に樋門を設けることで、両河川の水量の確保、土砂の流入の防止を実施しました。
この計画は、フランス帰りの技師、沖野忠雄の計画により、明治29年(1896年)から明治43年にかけて、我が国最初の本格的な治水工事として行われました。