http://hmpiano.net/riwakino/2011year/11.09.17aterui/newpage1.html
胆沢平野は北方七時雨山を水源として南流する北上川の中流域に位置し、盛岡市から一関 市辺まで、
雫石川、和賀川、胆沢川、白鳥川、衣川など大小の支川を擁する南北90キロメートルほどの沖積低地と
扇状地からなる奥六郡の穀倉地帯であり、五世紀末から六世紀初頭の造営と考証される前方後円墳
(胆沢町南津田角塚古墳)が証明するように、於呂閇志神社という式内社も現存する 歴とした農耕集落
である。儒教的モラルや稲作、養蚕を生業とする文化レベルを善とし、それを押付けるこ とが王化である
とする考えは、現地住民にとって迷惑この上もない。まして王化への帰順は俘囚として の差別であり、
原住民は族長阿弖流為・母礼に率いられて、敢然と干戈をとって立ち 上がった。