皇紀1321年=斉明7年(661年)7月24日、筑紫の朝倉宮で皇太子・中大兄皇子と半島への派遣軍の指揮を執っておられた斉明天皇が突如崩御される。
翌年の皇紀1322年= 称制元年(662年)、中大兄皇子は、先帝・斉明天皇崩御で、即位せずに政務を執る、いわゆる「称制」を開始され、称制元年となる。
朝鮮半島で新羅とは交戦状態にあり、斉明天皇は崩御されたが、皇太子・中大兄皇子は天皇として正式に即位しないで、天皇としての政務を執るいわゆる「称制」という立場をとられたのである。皇統譜には称制元年とある。
皇紀1323年=称制2年(663年)7月20日、百済救援に派遣した朝廷軍が白村江の戦いで新羅・唐連合軍に敗れる。
皇紀1327年=称制6年(667年)3月19日、近江国滋賀大津宮(現在の大津市)へ遷都される。半島で朝廷軍が敗北し、国土防衛のために都を近江へ移された。
皇紀1328年=天智7年(668年)1月3日、先帝の斉明天皇が崩御されてから、皇太子・中大兄皇子は長い間皇位に就かれず皇太子のまま称制されたが、ようやくここで正式に即位される。称制で内部的にはすでに即位しておられた。
大海人皇子を皇太弟とされた。
2月23日、23年前に謀反事件を起こして中大兄皇子に滅ぼされた異母兄・古人大兄の娘で姪の倭姫王を立てて皇后とされた。
また蘇我倉山田石川麻呂大臣の娘・遠智娘(おちのいらつめ)、遠智娘の妹・姪娘(めいのいらつめ)、阿倍倉梯麻呂の娘・橘娘(たちばなのいらつめ)、蘇我赤兄の娘・常陸娘(ひたちのいらつめ)の4人を妃とされた。
皇后・倭姫王には皇子女はなかったが、遠智娘は建皇子(たけるのみこ)、大田皇女、鸕野讚良皇女(うののさららのひめみこ、後の天武天皇の皇后・持統天皇)の一男二女をもうけられ、姪娘は御名部皇女(みなべのひめみこ)、阿閇皇女(あへのひめみこ、後の元明天皇)をもうけられた。橘娘は飛鳥皇女、新田部皇女を、常陸娘は山辺皇女を産まれた。