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年紀が元禄3年(1690)と最も古い和製地球儀を作成した渋川春海(二代目安井算哲、1639~1715)が、延宝5年(1677)に刊行した星図。渋井春海(はるみ、保井=安井算哲)は、江戸時代初期の著名な囲碁棋士安井算哲の子として京都で生まれ、幼名は六蔵、字は順正・春海、諱は都翁(つつじ)、号を新蘆と称した。はじめ安井、のち保井と名乗り、父の没後に算哲を嗣いだが、元禄5年(1692)には助左衛門を名乗る。64歳で渋川姓に改姓している。数学・暦法を江戸の池田昌意に、天文暦学を京都の岡野井玄貞に学び、神道・数学・暦法などに長じ、貞享元年(1684)に改暦(貞享暦)に成功し、その後碁方を免ぜられ、初代の幕府天文方に取り立てられている。のちに、伊能忠敬が文化元年(1804)に手附(てつけ)に登用された役所である。貞享暦は日本人の手によって初めて編纂された和暦で、太陰太陽暦による暦法による。中国の授時暦をもとに、春海は自ら観測して求めた日本と中国との里差(経度差)を加味して日本独自の暦法を完成させた。「天文分野之図」は、そうした春海の改暦作業の過程で制作された星図で、春海が寛文10年(1670)に制作した「天象列次之図」に次ぐ、2作目の星図である。円の中心には北極星があり、天の赤道と黄道は二重円で描かれている。「天文分野之図」の大きな特徴は、十二支で方位を記した図の一番外側に日本の地名を配し、星宿(星座)と対応させて載せていることである。これは星と地上の事件を関連させる占星の考えを踏まえたものとされる。渋川春海は「貞享暦」「日本長暦」の暦書のほか、天球儀・地球儀などの製作も行い、従来の漏れ刻に代わる「百刻環」を造った。これは、周囲を1日百刻に目盛りした赤道環をもった一種の赤道型日時計とされる。