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つれづれなるままに日暮らし

顕如 けんにょ(1543−1592年)

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信長と11年間戦った本願寺第11世宗主 (1570〜1580年)

証如は、同2年(1533)に祖像を山科本願寺から大坂坊舎(1496年に蓮如が建立)に遷座し、ここを大坂(石山)本願寺とした(以下、石山本願寺)。

長島一揆・男女約2万人が撫で斬りに

元亀元年(1570)、織田信長顕如に対し、足利将軍家の再興資金として5千貫を課した。信長との衝突を避けたい顕如はこの要求に応じたが、さらに信長は、石山本願寺が石山から出て行くよう求めた。これに叛旗を翻した顕如は、各地の末寺や門徒に決起団結を促す檄文を飛ばし、寺内町の要害を強化して付近に端城を築城。信長に敵対する浅井氏、朝倉氏、武田氏、毛利氏らと手を組み、信長軍との武力衝突に備えた。

かくして同年9月12日夜半、折しも信長が将軍足利義昭とともに、大坂野田・福島に立て籠る三好三人衆と交戦のさなか、その三人衆と親しい関係にあった本願寺は、信長軍に攻撃を仕掛けたのであった。苦戦した信長軍が大坂から撤退すると、続いて近江や伊勢長島など各地で一向一揆が蜂起。本願寺門徒衆と信長軍による、足かけ11年(1570〜1580年)におよぶ石山合戦の火ぶたが切られた。この時、顕如28歳、信長37歳であった。

元亀3年(1572)、武田信玄の斡旋で両者は一旦和睦をしたが、翌年、信長は長島一揆討伐の戦闘を開始した。一揆勢は兵糧が尽き和睦を乞うたが受け入れられず、信長軍によって男女約2万人がことごとく撫で斬りにされた。このことは後の教如の「大坂抱様(おおさかかかえざま:石山本願寺での籠城戦)」の遠因となった。

天正元年(1573)に武田信玄が急死すると、勢いを得た信長軍は同3年(1575)に総勢6万にのぼる大軍を率いて大坂に攻め入った。そこで顕如は和議を申し入れ、信長は一旦了承したが、翌4年(1576)、信長軍は本格的に攻撃を開始。水陸交通を遮断して籠城を余儀なくさせ兵糧攻めを図ったが、石山本願寺は毛利氏の村上水軍による支援でどうにか持ちこたえた。

天正8年(1580)、信長は石山本願寺との和睦を正親町天皇に奏上し、これを受けた天皇は和睦に応じるよう勅使を遣わした。勅命講和である。かくして顕如石山本願寺を明け渡し、紀州雑賀衆(さいかしゅう:雑賀門徒)が開いた和歌山の鷺ノ森(現在の本願寺派鷺ノ森別院)に撤退し、親鸞聖人木像をここに移して本山とした。一方、教如は信長を信用せず、立ち退きを拒否して籠城したため、顕如はやむなく教如を義絶した(後に本能寺の変(1582年)で信長が果てたことを知った教如は、顕如に「詫状」を出して許しを得た)。長島一揆・男女約2万人が撫で斬りに

元亀元年(1570)、織田信長顕如に対し、足利将軍家の再興資金として5千貫を課した。信長との衝突を避けたい顕如はこの要求に応じたが、さらに信長は、石山本願寺が石山から出て行くよう求めた。これに叛旗を翻した顕如は、各地の末寺や門徒に決起団結を促す檄文を飛ばし、寺内町の要害を強化して付近に端城を築城。信長に敵対する浅井氏、朝倉氏、武田氏、毛利氏らと手を組み、信長軍との武力衝突に備えた。

かくして同年9月12日夜半、折しも信長が将軍足利義昭とともに、大坂野田・福島に立て籠る三好三人衆と交戦のさなか、その三人衆と親しい関係にあった本願寺は、信長軍に攻撃を仕掛けたのであった。苦戦した信長軍が大坂から撤退すると、続いて近江や伊勢長島など各地で一向一揆が蜂起。本願寺門徒衆と信長軍による、足かけ11年(1570〜1580年)におよぶ石山合戦の火ぶたが切られた。この時、顕如28歳、信長37歳であった。

元亀3年(1572)、武田信玄の斡旋で両者は一旦和睦をしたが、翌年、信長は長島一揆討伐の戦闘を開始した。一揆勢は兵糧が尽き和睦を乞うたが受け入れられず、信長軍によって男女約2万人がことごとく撫で斬りにされた。このことは後の教如の「大坂抱様(おおさかかかえざま:石山本願寺での籠城戦)」の遠因となった。

天正元年(1573)に武田信玄が急死すると、勢いを得た信長軍は同3年(1575)に総勢6万にのぼる大軍を率いて大坂に攻め入った。そこで顕如は和議を申し入れ、信長は一旦了承したが、翌4年(1576)、信長軍は本格的に攻撃を開始。水陸交通を遮断して籠城を余儀なくさせ兵糧攻めを図ったが、石山本願寺は毛利氏の村上水軍による支援でどうにか持ちこたえた。

天正8年(1580)、信長は石山本願寺との和睦を正親町天皇に奏上し、これを受けた天皇は和睦に応じるよう勅使を遣わした。勅命講和である。かくして顕如石山本願寺を明け渡し、紀州雑賀衆(さいかしゅう:雑賀門徒)が開いた和歌山の鷺ノ森(現在の本願寺派鷺ノ森別院)に撤退し、親鸞聖人木像をここに移して本山とした。一方、教如は信長を信用せず、立ち退きを拒否して籠城したため、顕如はやむなく教如を義絶した(後に本能寺の変(1582年)で信長が果てたことを知った教如は、顕如に「詫状」を出して許しを得た)。長島一揆・男女約2万人が撫で斬りに

元亀元年(1570)、織田信長顕如に対し、足利将軍家の再興資金として5千貫を課した。信長との衝突を避けたい顕如はこの要求に応じたが、さらに信長は、石山本願寺が石山から出て行くよう求めた。これに叛旗を翻した顕如は、各地の末寺や門徒に決起団結を促す檄文を飛ばし、寺内町の要害を強化して付近に端城を築城。信長に敵対する浅井氏、朝倉氏、武田氏、毛利氏らと手を組み、信長軍との武力衝突に備えた。

かくして同年9月12日夜半、折しも信長が将軍足利義昭とともに、大坂野田・福島に立て籠る三好三人衆と交戦のさなか、その三人衆と親しい関係にあった本願寺は、信長軍に攻撃を仕掛けたのであった。苦戦した信長軍が大坂から撤退すると、続いて近江や伊勢長島など各地で一向一揆が蜂起。本願寺門徒衆と信長軍による、足かけ11年(1570〜1580年)におよぶ石山合戦の火ぶたが切られた。この時、顕如28歳、信長37歳であった。

元亀3年(1572)、武田信玄の斡旋で両者は一旦和睦をしたが、翌年、信長は長島一揆討伐の戦闘を開始した。一揆勢は兵糧が尽き和睦を乞うたが受け入れられず、信長軍によって男女約2万人がことごとく撫で斬りにされた。このことは後の教如の「大坂抱様(おおさかかかえざま:石山本願寺での籠城戦)」の遠因となった。

天正元年(1573)に武田信玄が急死すると、勢いを得た信長軍は同3年(1575)に総勢6万にのぼる大軍を率いて大坂に攻め入った。そこで顕如は和議を申し入れ、信長は一旦了承したが、翌4年(1576)、信長軍は本格的に攻撃を開始。水陸交通を遮断して籠城を余儀なくさせ兵糧攻めを図ったが、石山本願寺は毛利氏の村上水軍による支援でどうにか持ちこたえた。

天正8年(1580)、信長は石山本願寺との和睦を正親町天皇に奏上し、これを受けた天皇は和睦に応じるよう勅使を遣わした。勅命講和である。かくして顕如石山本願寺を明け渡し、紀州雑賀衆(さいかしゅう:雑賀門徒)が開いた和歌山の鷺ノ森(現在の本願寺派鷺ノ森別院)に撤退し、親鸞聖人木像をここに移して本山とした。一方、教如は信長を信用せず、立ち退きを拒否して籠城したため、顕如はやむなく教如を義絶した(後に本能寺の変(1582年)で信長が果てたことを知った教如は、顕如に「詫状」を出して許しを得た)。長島一揆・男女約2万人が撫で斬りに

元亀元年(1570)、織田信長顕如に対し、足利将軍家の再興資金として5千貫を課した。信長との衝突を避けたい顕如はこの要求に応じたが、さらに信長は、石山本願寺が石山から出て行くよう求めた。これに叛旗を翻した顕如は、各地の末寺や門徒に決起団結を促す檄文を飛ばし、寺内町の要害を強化して付近に端城を築城。信長に敵対する浅井氏、朝倉氏、武田氏、毛利氏らと手を組み、信長軍との武力衝突に備えた。

かくして同年9月12日夜半、折しも信長が将軍足利義昭とともに、大坂野田・福島に立て籠る三好三人衆と交戦のさなか、その三人衆と親しい関係にあった本願寺は、信長軍に攻撃を仕掛けたのであった。苦戦した信長軍が大坂から撤退すると、続いて近江や伊勢長島など各地で一向一揆が蜂起。本願寺門徒衆と信長軍による、足かけ11年(1570〜1580年)におよぶ石山合戦の火ぶたが切られた。この時、顕如28歳、信長37歳であった。

元亀3年(1572)、武田信玄の斡旋で両者は一旦和睦をしたが、翌年、信長は長島一揆討伐の戦闘を開始した。一揆勢は兵糧が尽き和睦を乞うたが受け入れられず、信長軍によって男女約2万人がことごとく撫で斬りにされた。このことは後の教如の「大坂抱様(おおさかかかえざま:石山本願寺での籠城戦)」の遠因となった。

天正元年(1573)に武田信玄が急死すると、勢いを得た信長軍は同3年(1575)に総勢6万にのぼる大軍を率いて大坂に攻め入った。そこで顕如は和議を申し入れ、信長は一旦了承したが、翌4年(1576)、信長軍は本格的に攻撃を開始。水陸交通を遮断して籠城を余儀なくさせ兵糧攻めを図ったが、石山本願寺は毛利氏の村上水軍による支援でどうにか持ちこたえた。

天正8年(1580)、信長は石山本願寺との和睦を正親町天皇に奏上し、これを受けた天皇は和睦に応じるよう勅使を遣わした。勅命講和である。かくして顕如石山本願寺を明け渡し、紀州雑賀衆(さいかしゅう:雑賀門徒)が開いた和歌山の鷺ノ森(現在の本願寺派鷺ノ森別院)に撤退し、親鸞聖人木像をここに移して本山とした。一方、教如は信長を信用せず、立ち退きを拒否して籠城したため、顕如はやむなく教如を義絶した(後に本能寺の変(1582年)で信長が果てたことを知った教如は、顕如に「詫状」を出して許しを得た)。