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つれづれなるままに日暮らし

倭の五王

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倭の五王と九州王朝説 - 邪馬台国の位置と日本国家の起源
washiyamataikoku.my.coocan.jp/paper/paper37.html
倭の五王とは、413年から502年の約100年間に、中国の南朝と通交した倭(日本)の五人の王者のことです。この倭王は、讃、珍、済、興、武の五人で、これを「倭の五王」と称しています。通説では、讃=仁徳天皇、珍=反正天皇、済=允恭天皇、興=安康 ...

倭の五王
www.bell.jp/pancho/travel/furuiti-mozu%20kofungun/goou.htm
同時代に編纂された中国の史書に登場する倭王たち. 『宋書』は、南朝の宋(420-479)・斉(479-502)・梁(502-557)に仕えた沈約(441-513)が、永明5年(487)春、斉の武帝に命ぜられて編纂した史書である。本紀10巻・列伝60巻・志30巻の計100巻からなる ...

邪馬台国卑弥呼倭の五王 - ベネディクト地球歴史館
benedict.co.jp/smalltalk/talk-160/
2011/09/11 - 卑弥呼の歴史. 魏志倭人伝の「邪馬台国ルート」と倭国大乱を素直に読めば、 「邪馬台国の場所 = 九州中部から北部」 は間違いない(と思う)。 また、中国の正史「二十四史」から倭の歴史年表を作ると、 ・西暦57年〜190年、中国から見た倭 ...

中国の正史「二十四史」から倭の歴史年表を作ると、

・西暦57年〜190年、中国から見た倭は「奴国」で、場所は福岡市近辺。
・西暦178年〜184年、九州北部を中心に倭国大乱が起こった。
・西暦184年〜、倭国大乱をおさめるため、国人は卑弥呼を女王に共立した。

魏志倭人伝三国志・魏書)に、その後の倭が記されている ・・・

景初二年(238年)6月、倭の女王が大夫を派遣して帯方郡朝鮮半島の魏の拠点)にもうで、魏の皇帝に朝貢することを求めた。その年(238年)の12月、卑弥呼は使者を遣わし、男の奴隷4人、女の奴隷6人、布2匹2丈を献上した。魏の王はそれにこたえ、卑弥呼を「倭王」と認めた。

梁書」では ・・・

魏の景初三年(239年)、公孫淵が誅殺された後、卑弥呼は初めて朝貢し、魏から「倭王」と認められ、仮の金印紫綬をさずかった。

中国・二十四史「北史)」

卑弥呼は240〜249年に死んでいる。とすると、「前泰の初め(西暦351年)」の朝貢は、卑弥呼も臺與もありえない。

ここで、一度整理しよう。
・180年〜、倭国大乱が勃発した。
・〜189年、倭国大乱をおさめるため国人は卑弥呼を共立した。
・239年、倭王卑弥呼が初めて朝貢した。
・240〜249年、卑弥呼は死んだ。
・〜351年、倭は頻繁に朝貢した。

ということで、351年の朝貢は、少なくとも卑弥呼ではない。

「九州政権」。さて、ここで新たな問題が発生する。いつ、九州政権からヤマト王権大和朝廷)に移ったか?

倭の五王

梁書によれば ・・・

魏の景初三年(239年)、公孫淵が誅殺された後、卑弥呼は初めて遣使を以て朝貢し、魏は親魏王と為し、仮の金印紫綬を授けた。正始中(240−249年)、卑弥呼が死に、改めて男の王を立てたが、国中が服さず、互いに誅殺しあったので、再び卑弥呼の宗女「臺與」を王として立てた。その後、また男の王が立った、いずれも中国の爵命を拝受した。

晋の安帝時(396−418年)、倭王・讃(さん)がいた。讃が死に、弟の珍(ちん)が立った。珍が死に、子の済(せい)が立った。済が死に、子の興(こう)が立った。興が死に、弟の武(ぶ)が立った。斉の建元中(479−482年)、武を持節、督倭・新羅任那・伽羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、鎮東大将軍に除した。高祖が即位すると、武の号を征東大将軍に進めた。

いわゆる、「倭の五王」の記述である。ざっくり言うと、
「西暦396年〜482年、倭に、讃、珍、済、興、武の五王が立った」

倭の五王」は、中国・二十四史の「南史(なんし)」、「宋書」にも出てくる。内容は梁書にくらべ、かなり詳細だが、五王の名前は同じ。では、この倭の五王とは一体誰をさすのか?

日本書紀」から、
・讃 → 履中天皇
・珍 → 反正天皇
・済 → 允恭天皇
・興 → 安康天皇
・武 → 雄略天皇
とする説がある。この説に従えば、396年には九州政権からヤマト王権大和朝廷)に移っていたことになる。

ところが、中国・二十四史によれば、西暦600年以降、「倭」と「日本」が明確に区別されている。

それを素直に読めば、

1.【倭】:邪馬台国卑弥呼を継承する王統(九州政権)

2.【日本】:ヤマト王権大和朝廷

もし、これが事実なら、九州政権からヤマト王権に移った時期は、600年以降になる。さて、真実はどこに?この謎は、邪馬台国の場所より、さらに深い。