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つれづれなるままに日暮らし

大化改新の詔でうたわれた古代の道である「七道駅路」の制定

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すくなくとも律令時代の古代の道路に対して、山辺の道のような狭い道や曲がりくねった道、あるいは獣道のような踏み分け道といったイメージを抱くのは誤りである。律令制では「七道駅路」と総称される七つの「駅路」、すなわち東海道東山道北陸道山陰道山陽道南海道西海道が設置されていた。これらの駅路は官道であり、現代の高速道路のように2車線〜4車線幅のまっすぐな道だった。

七道駅路は、7世紀後半から8世紀にかけて建設され、10世紀ころまで機能していたようだ。それは都から本州と四国・九州の66国2島すべてに達する壮大なネットワークだった。

駅路設置のことは、大化2年(646)に出された改新の詔でうたわれているのが最初とされている。『日本書紀』によれば、大化2年春1月1日、賀正の礼が終わって、改新の詔(かいしんのみことのり)が発せられた。その第二は次のような内容になっている。

京師(都城)を創設し、畿内国司・郡司・関塞(せきそこ、重要なところの守塁)・斥候(うかみ)・防人(さきもり)・駅馬(はいま)・伝馬(つたわりうま)を置き、鈴契(すずしるし、駅馬・伝馬を利用する際に使用)を造り地方の土地の区画を定める。・・・

さらに、『日本書紀』は672年の壬申の乱のとき、倭(やまと)古京の近江朝廷の留守役に駅鈴の交付を求めて拒否されたことを記している。また大海人皇子(おおあまのみこ)が吉野から東国入りの際に、名張や伊賀の駅家を焼いている。こうしたことから、すくなくとも大和の周辺では壬申の乱以前に駅制が実際に機能していたと考えられている。

駅路の総延長はおよそ6300キロ。道の両脇に側溝を持つ駅路の路面幅は、奈良時代には12m、平安時代には6mを基本としていた。しかも30里(=16キロ)ごとに駅家(えきや)が置かれ、全国でおよそ400の駅家があったという。

注:古代の30里は約16キロと言われる。その根拠は『養老令』の中に、「凡そ地を度(はか)らんに5尺を歩となす。300歩を里となす」とあり、当時は1尺がおよそ35.3cmの令大尺が用いられていた。したがって、1歩=5尺=35.3cm x 5=176.5cm、1里=300歩=176.5cm x 300=529m、故に、30里=529m x 30=15.885km=ほぼ16kmとなる。

駅路には格があり、『令集解』によれば、大路は山陽道のみ、中路は東海道東山道、その他は小路とされた。なお、山陽道太宰府から先は小路とされた。大路の駅家には駅馬が20匹、中路の駅家には10匹、小路の駅家には5匹が置かれていたという。そして、毎年、太宰府や諸国から中央政府に派遣される朝集使は、規定した地点より先は官給の駅馬を使用してよいことになっていた。使者が駅馬を利用するには、駅鈴が交付されている必要があった。

時代は下るが、平安時代の延長5年(927)に完成し、康保4年(967)に施行された律令の施行細目である『延喜式』には、各国別の駅名とそれぞれの駅の配備駅馬数、および伝馬数の配置郡名と配備伝馬数が記録されている。これによって、全国に402の駅があったことがわかる。

古代交通研究会の木下良会長が監修して出版された『古代の路』(吉川弘文館)によれば、駅路の経路は基本的に直線だったそうだ。平野部では条里制に沿った場合が多く、駅路を基本に条里が形成されたようだ。駅路の設定の基準として、遠方から望見できる地形的な特徴、たとえば独立峰あるいは山脈・台地の突端などが目標にされたことが伺えるという。

また渓谷などの屈折した水路や屈曲の多い海岸線に沿って駅路が通された例はほとんどないそうだ。むしろ尾根沿いに山を越えて直進する場合が多く、自然災害に対する安全性と軍事上の安全性が図られたようだ。

畿内の六道とその変遷

七道駅路のうち九州の西海道を除く六道は、当時の畿内にあった都(藤原京平城京平安京)から発していた。道駅路が計画的に全国的に延びて行くのは天智天皇の時代に始まった。そして、 第40代 天武天皇の時代に本格化された。しかし、畿内では大化の改新(645年)よりさらに以前の推古天皇の時代にある程度制定されていたと推測されている。したがって六道のルートも時代によって少しずつ変わっている。

都からの駅路の時代変遷(広域)
平城京平安京を起点とする六道の変遷を畿内について見ると、次のようになる。

東海道
奈良時代には、東海道平城京から東山道北陸道と同じ道で北に延びていた。奈良坂を越えて北上し、京都府木津町付近で東に折れ、その後は木津川沿いに後の伊賀街道のルートを東へ伊賀に向かった。
飛鳥時代には、倭古京から後の伊勢街道沿いに出た。奈良時代東海道は、伊賀駅家があった現在の上野市あたりで飛鳥時代の駅路と合した。
平安時代には、勢多橋を渡り草津を経由して平安京から延びてきた東海道ルートが、現在の三重県伊賀町の柘植(つげ)町付近で合した。

東山道
平城京から北陸道と一緒に木津まで北上し、さらに木津川の右岸を奈良街道沿いに北に進み、現在の城陽市付近で北陸道と分かれて東北に向かう。そして、勢多橋の東の近江国府の近くで、勢多橋を渡ってきた平安京からの東海道東山道共通ルートと合する。

都からの駅路の時代変遷

北陸道
平城京からの北進路を東山道と分かれてから、さらに北進して宇治橋を渡り、山城の国の山科へ出たあたりで、平安京から東進してきた北陸道ルートと合する。この奈良時代北陸道ルートは、それ以前の壬申の乱のころは都が大津にあったため、大津京と飛鳥古京を結ぶ重要なルートで、宇治橋がチェックポイントだった。

山陰道
東山道北陸道のルートとは別に、平城京から近鉄京都線に近いルートで木津川左岸の開析平野の西を北上し、現在の京田辺あたりで北北西に進み、当時の木津・宇治・桂川三川合流地点である淀付近で渡河し、現在の京都市西京区あたりで平安京から西に向かう山陰道ルートに合する。

山陽道
八幡市南部あたりで山陰道と分かれたのち北西に進み、男山丘陵を越えて河内国に入り、現在の枚方市楠葉で淀川を渡り、平安京から西南進してきた山陽道ルートと合する。

南海道
平城京からほぼ巨勢路に沿って沿いに出た後、西進。平安京からの南海道は、山陽道とともに西南に下り、山埼駅で山陽道と別れてすぐ山埼橋を渡って生駒山西麓を後の東高野街道沿いに南下し、河内・和泉両国府を経た後、雄の山峠を越えて紀伊国に入り、紀ノ川沿いに達した萩原駅付近で、大和から南下して紀ノ川の右岸沿いに進んできた平城京からのルートと合する。

(*)参考・引用文献 木下 良監修 武部健一著『古代の道 −畿内東海道東山道北陸道−』

『皇統譜』 (こうとうふ)

藤原京*