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つれづれなるままに日暮らし

平野川

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大阪府柏原市、八尾市および大阪市を流れる淀川水系一級河川

平野川筋探訪 - 万葉の息長川

「日本書紀」仁徳14年冬11月条、「猪飼津に橋を渡した。そこを名付けて小橋といった。この年大通りを京の中に造った……」「続日本紀」(788)延暦7年に摂津職和気清麻呂が「河内摂津両国の堺を掘り河内川の水を西の海におとす」治水工事を行った。また「続日本紀」(751)天平勝宝2年5月24日、日本三大実録(862)貞観4年3月4日条にある「伎人堤」の記事はいずれも現平野川に関連するものとの説があり当時私は「喜連の伝承 万葉の息長川を考察する」の資料集めをしており平野川に多大の関心を持っていましたが、歴史にはまりこんだのがリタイア後の前年の2005年からで歴史音痴の悲しさで平野川上流には江戸期の情景が残っているだろうと期待していたのですが、そこで見たものは悉く期待外れの光景でした。そこには昔日の平野川はおろか近世の景観もなくあるのはコンクリ−との溝であり、ゴミや機械油の浮いた小流で失望と落胆以外のなにものでもなかった。これが一級河川?で歴史書に登場する河内川了意川百済川平野川等の呼び名を持つ川なのかと首を傾げたくなるほど「川」というイメ−ジからは程遠い有様でしたが部分的にでも行政が川の浄化とPRに取り組んでいるのが判ったのがせめてもの救いでした。

平野川も7〜8世紀当時は古大和川の本流といわれ古大和川(長瀬川)河内国澁川郡植松附近で分流し、太子堂附近で北北西に流れ南河内からの大乗川・東除川を合流、河内川と呼ばれ川幅は200〜300mあったといわれ国土地理院の土地条件図で見ると現平野郷町周辺で度々洪水を起こしていた形跡が読みとれます。この河内平野随一の暴れ川であった大和川(河内川)も九世紀中頃に河内国堤使長官が任命され中央政府が大がかりな治水対策に乗り出し植松の分流地点を締め切り流路変更を行ったといわれています。しかしその後も平野川は長瀬川と共に河内平野に幾多の洪水被害をもたらし江戸期の(1704)宝永元年の大和川付替までこの河内低地に住む人々を水難被害で苦しめた記録が残っています。この大和川付替で旧大和川水系の河内低地の村々は年中行事のように繰り返される洪水被害から救われましたが、反面新大和川流域となった左岸では大乗川・西除川の流路変更、東除川の新川流入、悪水落し堀としての落堀川の開削・右岸の村々では狭山池用水の断絶による代替え用水の確保と新川による恩恵よりもデメリットのほうが大きかったようです。平野川南河内からの水源河川である大乗川・東除川西除川を全て断ち切られ、大和川付替後は柏原の青地樋、大井の井手口樋、太田の待井樋からの取水による灌漑用排水路として、また、降雨時河内の低湿地の排水路としても重要な河川であったようです。
大和川水系の恩地川・玉串川・長瀬川・平野川の各河川は往古からの摂河両国において歴史的遺産になるような河川なのですがいまでは、いずれも見る影もない人工河川となり廃水溝になりはてています。平野川についても流域の行政が治水と浄化に取り組んでいるのは判りますが現状から見ると、治水はともかく川の浄化については先が見えないというのが現状です。こうした歴史的遺産に匹敵する河川は水鳥の飛来や、魚釣りのできる河川に戻して次世代に引き継いで行きたいものです。

「続日本紀」(751)天平勝宝2年5月24日

日本三大実録(862)貞観4年3月4日条にある「伎人堤」

藤井寺 道明寺

志紀長吉神社(しきながよしじんじゃ)

真田丸 (*) , 和気清麻呂*