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つれづれなるままに日暮らし

水内村

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神社庁 Web (*)

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水内大社*

善光寺は水内神社であったのか

  • 日本書紀』 卷三十 第41代 持統天皇 (*) 五年(六九一)八月に「二十三日、使者を遣わして、竜田風神・信濃の諏訪(大社)・水内社などの神を祭らせた。」
  • 延長五年(九二七)にまとめられた延喜式神名帳、いわゆる延喜式内社には水内の神社として次の九社があげられています。

・美和神社
・伊豆毛神社
・妻科神社
・小川神社
・守田神社
・粟野神社
・風間神社
・白玉足穂命神社
・健御名方富命彦神別神社
 ここには水内神社の名はありませんが、「釈日本紀」では健御名方富命彦神別神社が水内神社のことであるとしています。『善光寺史』の著者坂井衡平も同様の見解をしめしています。

Ⅱ資料編 - 国文学研究資料館学術情報リポジトリ (pdf)

水内郡のオリジナルTシャツ: 水内郡(みのちぐん)は、長野県(信濃国)にあった郡。現在の下記の区域にあたるが、行政区画として画定されたものではない。古くは「みのちごおり」、「みぬちごおり」と呼ばれた。奈良時代後半に全国から9人が各々の善行によって朝廷から褒美を得ていて刑部知麻呂倉橋部真人の二人が当郡の人と続日本紀に記載がある。平安時代の『延喜式』、『和名類聚抄』にも水内郡の名が見られる。郡衙長野市南長野の県町遺跡に比定されている。平安時代後半の「僧妙達蘇生注記」に善光寺が当郡に存在することが記されており善光寺の名とともに広く知られていた。戦国期には越後国上杉氏に属した葛山氏が勢力を誇っていたが、甲斐国の武田氏は越後上杉氏との川中島の戦いにおいて弘治2年(1556年)頃から葛山氏に対する調略を行う。弘治4年(1558年)には上水内郡中条村の柏鉢城に在番衆を入れ支配拠点とし、大日方主税助、室住虎定(豊後守)、水上六郎兵衛(備前守)、箕輪衆、坂西氏らを配置した。武田氏は永禄9年(1566年)頃から判物から奉書式朱印状の切り替えを行っているが、武田氏の水内郡支配において奉書式朱印状の奉者の多くは信玄側近の跡部勝資(大炊助)が務めており、勝資が担当奉者であったと考えられている。

信濃国の式内社一覧 - Wikipedia

水内郡 9座(大1座・小8座)
美和神社 ミワノ 小 美和神社 長野県長野市三輪
伊豆毛神社 イツモノ 小
妻科神社 ツマシナノ 小 妻科神社 長野県長野市南長野
小川神社 ヲカハノ 小
守田神社 モリタノ 小   (論)守田神社 長野県長野市七二会 [4]
(論)守田迺神社 長野県長野市高田
(論)守田神社 長野県長野市穂保
粟野神社 アハノノ 小
風間神社 カサマノ 小 風間神社 長野県長野市風間
白玉足穂命神社 シラタマタリホノ- 小
健御名方富命彦神別神社 タケミナカタトミノ-
タケミナカタトム- 名神大   (論)健御名方富命彦神別神社 長野県長野市長野 [5]
(論)健御名方富命彦神別神社 長野県長野市信州新町水内 (*)
(論)健御名方富命彦神別神社 長野県飯山市豊田

水内* 仏教*