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つれづれなるままに日暮らし

明治政府 木戸孝允 碑

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霊山護国神社 木戸孝允神道

【交通】市バス・東山安井
【位置】霊山護国神社内 入口すぐ

木戸孝允明治10年に没し、京都にあるのは、木戸の神道碑だけである。

天皇の命により建立された神道碑を通常、勅撰碑ともいう。
画像

明治維新以降は、
毛利公神道碑 明治29年
木戸公神道碑 明治39年
大久保公神道碑 明治43年
三条公神道碑 大正14年
大原公神道碑 大正14年
広沢公神道碑 大正14年
島津公神道碑 大正15年
岩倉公神道碑 大正15年。

神道碑】
石碑などの上部に篆書で書かれた題字を篆額(てんがく)という。
この碑は、右端から縦に左へと読んでいく。
【篆額】故内閣顧問 贈 従一位 木戸公神道

(下段の本文に入り)
故内閣顧問 贈 従 一位勲一位 木戸公神道
海軍大将大勲位 功三級 威仁親王 篆額
(威仁親王は、有栖川宮威仁親王のことで、
この篆額を書いたことがわかる)

明治三十九年三月 勅東宮侍講臣三島毅撰故内閣顧問木戸孝允碑文
毅謹按公諱孝允称 (改行)
小五郎号松菊長州藩和田正直子母猪口氏天保四年六月二十六日生
・・・以下略。

すなわち、明治三十九年三月に三島 毅が撰文(せんぶん)
この説明文を作文した。
木戸公の名は孝允、通称は小五郎、号は松菊であると読める。
さらに、この面から時計回りに左側面(遁帰江戸是月公・・・)、
その左側面(更建数幕府也・・・)、その左側面(有五・・・)
と続き、最後の行は、
明治三十九年九月 東宮侍講正四位勲三等文学博士臣三島毅奉 勅撰
錦鶏間祗候正三位勲一等男爵臣野村素介奉 勅書

すなわち、明治三十九年九月に東宮侍講、つまり、
天皇東宮(皇太子)に学問を講じる役職で
正四位勲三等の文学博士である三島 毅が作文し、編纂 (へんさん)した。
勅書とは、天皇の勅命を伝える公布されない文章の意味だが、
ここでは、正三位勲一等男爵の野村素介の書である、あるいは、
野村素介が書したということになる・・・

そして、
この神道碑は、大正2年まで、その完成を待つことになった。

木戸孝允神道碑 最後の行がある面画像