三田城(三田藩陣屋 ・旧車瀬城、滝山城) 三田市天神町2丁目 屋敷町
第8代九鬼嘉隆は織田信長に付いて天正6年(1578)大阪・石山本願寺の攻撃では、毛利水軍を抑える為に日本で始めて鉄張りの船を造り其の軍功により鳥羽の城主になり、
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- 鉄甲船 (*) 、「多聞院日記」:多聞院英俊 (近代デジタルライブラリー)
後に豊臣秀吉の朝鮮征伐では水軍の大将とし手柄を立てています。慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでの九鬼一族は、嘉隆が石田三成の西軍に長子・守隆は徳川家康の東軍に付き二つに分かれて戦います。 敗れた西軍の嘉隆は自刃し寛永9年(1632)守隆の他界で後を継いだのが九鬼久隆です。全国に名を知られた九鬼水軍が力を盛り返すのを恐れた家康は、志摩の鳥羽城主九鬼久隆が寛永10年(1633)海の無い三田に移封されるがその後、 国替えもなく明治になるまで13代隆義まで200年余り三田藩は存続します。第10代隆国のとき城主格となり陣屋は城と呼称されたが幕府は陣屋として取り扱っています。
三田城 家老 白洲、白洲次郎 (*) 祖父 藩の儒者である白洲退蔵
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- 白洲家墓地
- 江戸時代・九鬼氏が3万6千石