altgolddesu’s blog

つれづれなるままに日暮らし

vol.77 神戸市大歳山遺跡事件

Google 事件 兵庫県立考古博物館 (*)

昭和44年、1969年10月16日に神戸市大歳山で事件が起こりました。今は一部が史跡公園になっています。その話を今日はさせていただきます。
 舞子の浜はみなさん、よく知っていると思います。舞子の浜より少し西側の山の方に入ったところです。今は家が遺跡のあった、丘の上に建ってしまっています。古墳もあります。
 大歳山式土器は考古学の世界では有名です。資料に載せてあるように、ちょっと変わった貝殻の文様とか、点々の文様とかがあります。広がりの範囲は、西は瀬戸内の広島あたりから、静岡あたりまで、海岸部を中心に出てくる縄文時代前期の終わりから中期の初めの特色ある土器です。
 ビックリしたのは、何年か前に、“鳥も通わぬ”と言われる八丈島に行ったときに、現地の資料館に大歳山式土器が展示してあったことでした。“鳥も通わぬ”と言われるような所に神戸の人はどのようにして行ったのだろうと。丸木船しかないですからね。海人たちなんでしょうかね。そういう人がかつて神戸におったようです。大正の後半から昭和初年にかけてに住んでおられた、直良信夫さんという偉い先生が、明石で肺結核の療養をされていた時期があったそうです。そして、「雨の日も、風の日も、医者のとめるのもきかないで、」と本人が書いた文章なんですけれども、そうやって明石市周辺の遺跡めぐりをしておられたそうです。「明石原人」を見つけた人としても有名な直良先生です。療養中に周りの遺跡をウロウロして、明石原人の骨を見つけたり、周囲の遺跡の資料を集めて「近畿古文化叢考」という本を書いておられます。私の学生時代の卒業論文縄文時代ですから、大歳山式土器も、直良先生の本で勉強してました。大正11年の春から昭和7年までの10年間、大歳山遺跡全体の土をふるうように土器のカケラを集めたそうです。ようやりますよね、こんなこと(笑)。本当にすごい人だと思います。せっせとカケラを集めたことが本に書いてあります。大正11年から昭和7年は、今から90年以上前じゃないでしょうかね。10年間も、せっせと通って。病気療養中に全国的にも大歳山式土器を有名にしたんです。
 昭和44年10月16日。大歳山遺跡にブルドーザーが入って壊されました。残ったのが一部で、大半が壊されました。
これは不動産業者がアパートを建てるということで、工事に入ったんです。その当時、関西のいくつかの大学の考古学専攻の学生や周りの人たちも応援に来てくれて、かなり頑張ったけれど、結局は壊されました。私はその頃ちょうど、兵庫県教育委員会の嘱託調査員として、山陽新幹線とか中国道の遺跡調査するために3人が現地職員として教育委員会におり、遺跡の分布調査や発掘をしてました。現場に出かけるときは役所ですから、どこへ何のために行くのかという書類を書いて、上の人の判子をもらっていくルールなんですけれども、3人の若造はそういう手続きを無視して勝手に、遺跡調査に奮闘してました。その頃は高度成長期ですから、いつクビになってもどこへでも行けるんだと、嘱託調査員の分際で偉そうにしておりました。今だったら多分クビでしょう。そういう時期に大歳山遺跡が大変だと、京都のいくつかの大学の学生が調査に参加しておりまして、その人たちがブルドーザーに追いかけられながら発掘していると聞いたもんですから、県の臨時職員である我々3人がやっぱり知らん顔するわけにもいかんだろうということで、現場に行こうと3人で相談しました。その時は、状況を聞いていたもんですから何が起こるかわからんと。ブルドーザーに潰されるかもわからんし、怪我をするかもしれん。そのためには、今日は上の人の判子をちゃんと貰っていこうと。無駄死も、無駄に怪我をするわけにもいかんから、嘱託職員だけれども、公務員の端くれになりますから、公務員が開発のブルドーザーで怪我をしたら遺跡が残るかもしれんと、多分悲壮な顔で相談したと思います(笑)。健気なことを考えたようで、普段は無視していた書類に、“どこへ何をしに行きます”と書いて判子をもらい“なんかお前ら珍しいな”と言われながら、現場へ行きました。
 現場へ行くと、学生たちがブルドーザーがきそうな遺跡の中の住居跡などがあるところに、それぞれグループを作って立っているんですよ。ブルドーザーが来ないように。そういう様子を目にしたもんですから、我々も手分けしてそれぞれの壊された小丘の上に立ちました。一番ブルドーザーが来そうなところに2人固まって立ってると、そこにブルドーザーは来ないんです(笑)。向こうに行ったからと追いかけていくと、また向こうへ行ってしまうんです。
何で我々が教育委員会の人間かとわかったんだろうと不思議でした(笑)。きれいな格好はしていませんからね、現場に行くときは汚い格好で、学生と同じような格好で現場で行きますから、何で我々が立っているところに来なかったんだと。業者の偵察力の凄さと言いますか(笑)。ブルドーザーの運転手にまで“あいつらには触るな”と命令してたんかなと。だいたい、我々が現場に行くことは業者にはわかっていないはずですからね。あれは未だに不思議です。
なんで来なかったんだろう・・・。結局、新聞にも載りませんし、怪我もしませんでした。でも、遺跡は潰されました。
奇妙な思い出の遺跡です。
 資料(4)の最後の方に「そして遺跡は一部の保存区域をのこして・・・」と書いてますが、やっぱり若いんですよねこの文章を書いたときは。「グリーンのない『グリーンハイツ』ができた」と嫌味たっぷりですけれども(笑)。
今、そこに住んでいる方がおられたら申し訳ないですが、住んでいる人は何も悪くないです。結局、騒動の後、遺跡には近づいてないんです。やっぱりよう行かんという感じです。
 その後、後日談がありまして、日本中の考古学の研究会の中で一番熱心で、一番時間を使って、遺跡の保存活動をやっている研究会は岡山大学中心の考古学研究会です。昔は「わたしたちの考古学」という雑誌を出している、近藤義郎先生が中心になってる研究会なんです。その研究会の委員会で大歳山遺跡のことが問題になりまして、学生がその遺跡の上に立って占拠し、ブルドーザーに追いかけ回されているのは極めて遺憾だと話題になったことがありました。その当時、私は岡山の研究会で地方委員をやっておりまして、たまたま、その会議の席におったもんですから、“現場で頑張っている学生がけしからんというのはけしからん”と文句を言ったことがあります。近藤先生は左翼系統の凄い学者さんであるんですけれども前回の大中トークでもお話しましたが、焼酎を飲ませてもらった良い先生だと思っていたのです。その時、近藤先生に逆らったのは“遺跡の保存運動を行っている学生に、保存運動の仕方がおかしいという言い方は保存運動にランクをつけているんではないか」という点でした。その当時、近藤先生は国の方針に対して盛んに活字で文句をいっぱい書いたり、発表したりしておりました。今の文化庁にあたる文部省の「日本中の遺跡は、これは国の遺跡・これは県の遺跡・これは村の遺跡とか、それに当てはまらないものは開発が遅れるから壊していかざるを得ない」ということに対して近藤先生は“それは遺跡のランク付けであって、絶対におかしい。遺跡は全て文化財として残すべきである”とすごく良いことを言っておられたんです。現実にはなかなか難しいことですけどね。“そう言っておられた先生が、遺跡の保存運動にランクを付けておられるんではないですか?”と逆らいました。その時は渋い顔をしておられましたけどね。
 その後、東京大学が出している『史学雑誌』で1年間の研究論文とか遺跡調査を展望する特集号が毎年1冊でるんですけれどもそれに兵庫県の1年間の動向を書けと言われて「大歳山遺跡事件」として“これは遺跡のランク付けでけしからん”と偉そうなことを書きました。その後しばらく岡山大学へは行こうと思いませんでした。というようなことを思い出しました。
 その時の兵庫県教育委員会はよくやったと思いますね。我々3人がよくやったんではなくて、教育長は“お前らは行くな”とは言いませんでしたし、県の課長にあたる人は黙認してくれました。触れもしませんでしたけどね(笑)。おそらく、今だったら“行くな”と言われるでしょうね。本人もいまだったらよう行きません。
 やっぱり若気の至りもいいもんだなということで、大昔のことを思い出しました。