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つれづれなるままに日暮らし

「尼崎市猪名寺廃寺跡の調査─最初の寺跡発掘─」

Google兵庫県立考古博物館

 今日は尼崎にあるお寺、猪名寺廃寺 (*) の話です。昭和33年。25歳の頃です。
 22歳で大学を出ますから、大学を出たあとは大学院いって、勉強と称して発掘現場で10年ほど楽しんでました。
もともと弥生時代が好きなんですけど、寺跡の発掘に参加したのは最初が猪名寺だと思います。ですから寺跡に関しては何にも分かってない。
ただ、発掘がある言うから喜んでいったという、そんな感じです。調査主任は石田茂作先生です。石田先生は奈良国立博物館の館長をされておられた頃で、日本の古代寺院に関しては、一番えらい!という感じの先生ですね。その先生が大将で、奈良博学芸員の稲垣さんが、現場の中心で来られてました。私は一兵卒で参加してました。猪名寺廃寺はまぁ飛鳥時代後半のお寺で、兵庫県内でも白鳳寺院はいっぱいあります。小野市の公園のように綺麗に整備されている広渡廃寺もその代表的な1つです。
 現地は阪急園田駅の北の方、2、3kmぐらいですかね。建物の配置は法隆寺式です。古代寺院には塔・金堂・講堂などの主な建物がありますが、主な建物を一直線に配列するか、左右に並べるとか、いろんな配列の仕方があります。法隆寺は、塔が西側で、金堂が東側で、北側に講堂があり、法隆寺式と普通呼んでます。猪名寺廃寺も飛鳥時代後半の法隆寺式の建物配置であろうことは、発掘調査の前から金堂の基壇などが盛り上がってますから、ある程度わかってました。
“ぶちぬけ”と言う(笑)命令で、塔とか金堂に南北に幅2mくらいのトレンチを掘りました。いきなり“地山まで全部掘り下げろ”と言われましたが、基壇を壊すわけですよね。偉い先生はこういう掘り方をするもんかと。それにしても、本当でこんでいいもんかと。
わからんなりに生まれて初めてのお寺の調査への参加で鮮明によく覚えています。で、その時に奈良国立文化財研究所からも応援に来ておったんじゃないかと思うんですけれども、実測用紙が3種類ありました。今は、1mmで区切った、1cm方眼紙が普通ですけれども、
その時現場に来た方眼紙に尺の方眼紙がありました。1尺1寸が単位の尺の方眼紙です。古代寺院はメートル法で造ってるわけやなくて、尺で造っとるわけですから、飛鳥・奈良の1尺と、現代の1尺とに違いがあるとしても、尺度のほうが寺専門の先生方にとってはわかりやすいんでしょうね。だから、尺度の方眼紙がありました。で、さらに、奈良国立文化財研究所の方眼紙は2.5ミリ方眼でした。
メートル法ですけれども、2.5ミリ方眼の方眼紙もきてました。“お前ここを実測しろ”と言われ、図面に描こうとするわけだけども、もらった方眼紙によって単位が違ういうのがややこしかったですね。で、世の中にはいろんな方眼紙があるもんだと初めて知りました。
 講堂を南北にぶち抜いたトレンチの土層断面をとった時に、昔の人はこういう土の固め方をするのかと思ったんです。5cmくらいの厚みで土の層が違うんです。古墳も土を盛って墳丘を造ってんですけれども、古墳の土の盛り方は、ある程度見ておったんですけれども、
古墳の土の盛り方とお寺の、塔とか金堂とか講堂の基壇の土の盛り方と全然違うのもんだなということがわかりました。どう違うかというと、積んでる土の1層ごとの厚みが違う。例えば20m四方の円墳だったら、その外側にドーナツ状に土を、モッコから降ろして積みそれが30cmくらいの高さになったら、その内側に土を積んでいきます。
 だいだいその積み方をするんです。1層の厚みは20cmくらいです。土をつき固めることなく積んでいくんですけれども、お寺の場合は、厚いところでも10cm、普通だったら5cmくらい積んで、それを固めます。それから20数年経ったころ、法隆寺に見学に行きましたら、現代の築地塀の補修工事をたまたまやってました。何やってんだろうと見てたら、直径が5、6cmで高さが2mくらいの丸太棒を持って、モッコで運んできた土を幅1.5mくらいの築地塀の枠の中に土を入れ、で、棒でつき固めているんです。つき固めている最初の頃は、別になんてことないんですが、隣の何回か突き固めている所では、硬い所を叩いているような、キンキンする音がしてました。すごいつき固め方なんですよね。丸太棒で縦に2人ほどの人が、6尺だいたい1m80cmくらいで幅が1.5mくらいの所をつき固める土の音が金属音がするくらいでした。版築技法とよく言いますけれども。こういうつき固め方をするのが版築なんだなと実感しまいた。で、古墳の盛り土は版築をしていない。お寺の基壇の盛り土は版築をする、つき固める。だからよく残っているのですね。現場での発掘でも少し盛り上がって。古墳だって壊してないやつは盛り上がってますけれども、崩れ方が違うのでしょうね。そういうつき固め方をしている講堂基壇をブチ抜くという…まぁえらいことをするもんだなと、極めて印象深い調査でした。今考えても無茶苦茶だと思いますけどね。だだ、ある程度はそれをやる必要があるんですよね。
 例えば、平城宮跡大極殿平城宮大極殿跡に幅50cmで、基壇をブチ抜いてました。その幅50cmで礎石と礎石の間にトレンチを入れてブチ抜いてました。何でそんなことをするかいうと、土の積み方を確認するんですね。例えば、同じ奈良県山田寺跡の版築技術と高松塚の版築が同じかどうか比較します。飛鳥時代の古墳ですが、単に土を盛るのではなく、棒で非常に硬くつき固めます。ことによった
飛鳥寺を造った、行人と山田寺の塔基壇を作った工人が同じ技術だとしたら、その技術集団を統括しとったのが山田寺の一族かもしれ
ないとか、そんなことがわかるんですよね。そういう意味では、せっかく残った奈良時代飛鳥時代の塔とか金堂の基壇の一部をぶっ壊すわけですけれども、調査も必要であることは必要です。それにしても幅2mもブチ抜くことはないだろうと思うんですけどね。そういう調査が私のお寺の調査の初体験でした。
 そっから出てきた瓦が3番にあげてます。これは、白鳳時代ぐらいの復元の軒丸瓦です。2番は塔の心礎です。五重塔とか三重塔とか、塔には芯柱を据える大きな石、2m位の石を据え付け、心礎としています。そういう塔心礎もでてきています。関連する資料として4番、5番、6番に妙なものを入れてます。4番は、金属製の壺です。身と蓋が別々に造ってまして、直径が35cmくらいの球形で、身と蓋が2つに分けております。地金が銅で金メッキしてます。造ったときは黄金色ですね。それに文字が刻んであります。文字の所に線引っ張ってますが、威奈大村という、奈良時代の官人の骨壷です。火葬にしてます。この人は威奈大村といい、猪名寺と関係があるひとです。
で、猪名寺は、威奈氏という豪族が造ったお寺です。その一族に威奈大村という人がおって、その人のお墓が奈良県香芝市の逢坂にあります。威奈大村は、今の新潟県越後国国府の長官で、今で言うと、新潟県知事にあたります。そういう、奈良時代越後国国府の長官として、派遣されておった。尼崎に本拠を置いた威奈氏の一族が奈良時代になると、新潟県に派遣されており、亡くなったときには、奈良の大阪に近い二上山の麓に葬られておる。ということがわかったんですけれども、何でなんだろうと。何で摂津国の、威奈氏の官人が、猪名寺の近くにお墓を造らずに奈良にお墓を造ったのかというのは未だにわかりません。骨壷が明治の頃にでて、大阪の四天王寺に納められていました。お骨が入っているからといって、四天王寺に縁のある人が四天王寺に納めたようです。今は重要文化財に指定されて、京都国立博物館で保管されとります。私にとって、最初のお寺の発掘、それに関連する、一族の人のお墓がたまたま兵庫県におった頃に猪名寺廃寺の発掘に参加し、奈良にいたときに、その一族のお墓を探しにいったことで、今日の話を終わります。

2014.03.27

威奈大村 ()