兵庫県立考古博物館 もよおし案内 特別展講演会「“投馬国”を掘る」
11月17日(土)13:30〜15:00
講師:宇垣匡雅(岡山県教育委員会) 当日受付、定員120名、無料
古代史ロマン 第10章 投馬国連合の成立
岡山平野を中心に備前、備中、備後、美作と呼ばれた国々の総称
(1)中国の歴史書に登場する倭国(参考資料、番組で紹介されているのではありません)
① BC108〜AD8 「漢書」地理志 倭人が100余国に分かれ楽浪郡に定期的に使者を送る
② 57 「後漢書」東夷伝 倭の奴国王の使者が洛陽で光武帝から印綬を受ける
③ 107 倭国王帥升等が生口160人を安帝に献じる
④ 239 「魏志」倭人伝 邪馬台国の卑弥呼が魏皇帝に使者を送り、親魏倭王の称号と多数(100枚)の銅鏡(三角縁神獣鏡)などを贈られる、247年頃、卑弥呼死す、壱与が跡を継ぐ
⑤ 266 「晋書」 倭の女王(壱与?)晋都洛陽に使者を送る
⑥ 以後150年間 空白の4世紀 中国の歴史書から倭の記述が姿を消す
①の「BC108〜AD8」は、楽浪郡設置(BC108)から前漢滅亡(AD8)までの、いずれかの時期という意味です。
(2)邪馬台国論争(番組では簡単に紹介しているだけです。)
次のサイトを参考に、邪馬台国論争についてまとめてみました。
邪馬台国大研究 邪馬台国の会
まず、帯方郡から邪馬台国までの経路は次のようになります。
方向 距離 地名 人口
出発 帯方郡(ソウル付近)
→ 水行7000里 狗邪韓国
→ 渡海1000里 対馬 1000戸
→ 渡海1000里 壱岐 3000戸
→ 渡海1000里 末盧国(佐賀県唐津市・東松浦郡) 3000戸
→東南 陸行500里 伊都国(福岡県糸島郡)帯方郡の使者が常駐 1000戸
→東南 100里 奴国(博多) 20000戸
→東 100里 不弥国(所在地は不明) 1000戸
→南 水行20日 投馬国(所在地は不明) 50000戸
→南 水行10日(and/or)陸行1月 邪馬台国(所在地は不明) 70000戸
帯方郡から女王国まで12000里(伊都国から女王国まで1500里?)
南 狗奴国(熊本?)
灰色 部分はそれぞれ伊都国を基点とする経路であるとする説もある
この行程を基に、1里を4キロとして計算すると、邪馬台国は、はるか南方のインドネシアあたりにあることになります。
そこで、古田武彦氏は「一(短)里は約七十五ないし九十メートルであり、しかも七十五メートルに近い数値である」(邪馬一国の証明「解説にかえて ーー魏志倭人伝と短里『周髀算経』の里単位」 より)と提唱しているそうです。
①九州説
仮に、1里=75メートルとすると、伊都国から女王国までは1500里、つまり100キロ余り。伊都国を中心に、半径100キロの同心円を描くと、九州北部がすっぽり含まれる。つまり、邪馬台国は、九州北部のどこかにあったということになります。
しかし、伊都国から女王国までは、日数で60日以上かかっています。したがって、計算上は1日2キロ弱しか進まないことになります。そこで、伊都国以遠の経路は、各国を順番にたどるのではなく、伊都国を中心に各国への方向と距離を個別に示したものだとし、さらに邪馬台国に至る「水行10日陸行1月」は「水行10日または陸行1月」とするなら、最短で「10日」となり、「10日で100キロ」と、なんとか話のつじつまは合うことになります。
けれど、強引につじつまを合わせたという感じは否めません。
②大和説
そもそも、「帯方郡から女王国まで12000里」という計算はどこから来ているのでしょう。不弥国までは各国に至る経路を距離で示しているのに、投馬国と邪馬台国については、日数しか示していないのは不自然です。帯方郡の使者が常駐していたのは、伊都国だから、その近辺はともかく、投馬国と邪馬台国については、実際に見聞したのではなく、伝聞したまま記録したからではないでしょうか。
とするなら、「帯方郡から女王国まで12000里」という計算は怪しくなります。そこで、伊都国から60日間、自然な速度で進んだとするなら、奈良地方に到達するはずだと考えることもできます。ただし、進む方向を南から東へと修正しなければなりません。
しかし、これも、「邪馬台国は大和にあった」という結論を導くための、つじつま合わせという感じは否めません。
結局、魏志倭人伝の記述が、どこまで正確かは怪しい上に、さらにその記述のうちから、都合のよい部分だけを取り上げ、それぞれ自説を展開しているという感じがします。