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つれづれなるままに日暮らし

水内村字水内の郷社の健御名方彦神別神社

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信濃水内曲橋勧進帳−続群巻588−

水内の曲橋(久米路橋)は西上流半里に有り,東に近く三水の渡船

北方3町の神田村は古来20石と云い,西北の社僧神出山延命寺は,真言宗の大寺であったが,兵火に遭い,近くに塔平,仁王屋敷などの地名が存している。

上条安養寺過去帳に大永年間社司水内氏

続紀宝亀中,本郡の女嬬外従5位金刺舎人若島

続紀慶雲3年2月庚子,甲斐,信濃越中,但馬,土佐など/19社始入祈年祭−明神具在神祇官記−の19社中に入った伝がある−

光仁帝朝宝亀5年の金刺舎人 水内郡に,金刺の勢力が存したことを証している

信濃国造としての金刺氏が,名神大の「水内社」

「水内本社」の祭神が「建御名方富命彦別社」に摺り替えられた

信濃倭族の主力である水内倭族 (*)

下水内太田村五束の県社,健御名方彦神別神社

飛鳥時代には,推古帝の朝15年2月,恰も,善光寺縁起の信濃請下と同じ頃,詔して,水内大神阿智宮に法花経8巻納−伝に,1塔経,世に戸隠経と云う。

6万9千3百余字あり−と云い,次いで,持統帝朝5年に,奉祭水内神とあるは,即ち同社で,この時,牙笏を賜わり,祝詞神楽を奏し,神領を寄せられたと云う。

今,神宝中に牙笏がある。この後,承和以後の官記の伝えは,水内・五束両者と同じく,諏訪社および武水別社の分の托誤である。

天暦中,阿智祝登山して,奧社に奉祀し,平安後期に,更に分社が出来,平安末以降,井上源氏に次いで,村上為国の子孫が別当となってから大いに隆盛に赴いた。